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専門学校の講師としての仕事が始まってから、私は初めて経済学を学んだ。

公務員試験は数多くの科目が必要だが、法律は大学時代に学んでいたものの、経済学に関してはほとんど素人状態だったので、これで人に教えるなんてありえないと思っていた。

最初はスタッフ本部というところに配属され、法律関係の試験問題を作ったり、校正の仕事をしたりしていたので、まだ時間的に余裕があった。この頃は17時30分には職場を離れて、家に帰れたと記憶している。

早く経済学の知識を身につけなければ、いざクラス担任になったら一人で教えなければならなくなる。

その当時は公務員試験向けの経済学の教材も多くなく、その専門学校では教科書として中谷巌の「入門マクロ経済学」を使っていた。法律の試験問題などを作りながら経済の教科書を読んでみたがさっぱり訳が分からない。

またミクロ経済学は倉沢資成の「入門価格理論」が使われていたが、入門なのにわけがわからない。なぜ本のタイトルが「価格理論」なのか理由もわからない。

これは相当勉強しないとまずいと思い、それから毎日仕事帰りに高円寺駅前のマクドナルドで経済学の勉強をする日々が続いた。3時間から4時間ほどもマックで粘っていたので、店員はさぞ迷惑していたことだろう(しかもコーヒーかココア1杯だけで)。

当初はマクロ経済学とミクロ経済学の違いもわからず、数学が苦手だった私はグラフや数式でモデル化された経済学が全くとっつきにくい代物に映った。

大学時代に経済思想の本を何冊か読んだことはあったが、数学を使って表現すること自体が、すでに現実離れしていると考えた私は、経済学におけるモデルの意味と価値が全くわかっていなかったのである。

公務員試験の経済学は基本的に経済原論といわれる「マクロ経済学」と「ミクロ経済学」だが、このころの私と同様、高校を卒業して専門学校に入学してきた学生たちは、この科目の習得にはなかなか難儀したことだろう。

無事に公務員試験に合格し、現在第一線で活躍している卒業生も、すでにその内容は忘れて、今経済学を継続的に勉強してる人間は皆無ではないかと思うし、今試験問題を解けといわれても解けないだろう。

試験に役立つ範囲で、点数を取るためだけに勉強することは必要かつ大切なことだが、そのような知識が教養となり、見識となっていくことでその本当の意味や価値は理解できるようになるものだ。

その意味で幅広く数多くの科目を公務員試験のために学ぶことは大きなきっかけになる思う。

ただ教える立場に立ってみても、効率よく試験で点を取るためのテクニックやスキルを教えざるをえない面があり、この「学問」と「試験勉強」のはざまで、私はいつも悩んでいたように思う。

本当はもっと奥が深いものなのだが、試験に出るのはこの面だけだから暗記で済ます。理由はよくわからないが、とりあえず憶える、など私の意識も専門学校の講師を継続しているうちに、点数を取るためのテクニカルな勉強法や試験に受かるためだけの暗記法に移っていってしまった。

経済学と格闘しているうちに1か月が過ぎて、12月になり、あるクラスの副担任として教室に入るように指示を受けた。副担任とはいえ学生の前に立って、場合によっては授業をやったり、様々な科目を教えなければならなくなった。

そのクラスは公務員試験のⅡ種中級試験の合格を目指すクラスで、教養科目はもちろん専門科目が授業に入っているクラスだったから、私にとってはかなり危険な配属だった。

1か月ほど経済の本をこねくり回していたが、結局よくわからずに学生たちの前に立つことになってしまったからである。

このころの学生たちには「ごめんなさい」と言うしかない。

とりあえず得意な法律に逃げて、経済学は担任の先生に全てお任せしようと決意した。
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Kのノートを読み返しながら時間を過ごすうちに、いよいよ専門学校での仕事が始まる日が近づいてきた。

自分がどのような形で、貢献できるのか、きちんと仕事ができるのか、全く自信はなかったが、これまで28年間学んできたことや経験してきたことは決して無駄にはならないはずだ。

仕事が始まるまでのわずかな休みの期間に、初めて「行政法」という科目を勉強した。

私の大学時代の授業には「行政法」という科目はなかった。

私はこれから学生たちに教える立場に立つのに、実際は十分にマスターできていない科目や学んだことのない科目がたくさんあった。

それはある意味で当然のことでもある。通常は自分の専門というものがあり、それだけを教えるものだが、これから始める専門学校の仕事では「クラス担任制」がとられていて、要するにクラスの学生たちに必要な科目は全て担任が教えるということになっていたからだ。

私が仕事をする学科は公務員試験の受験を希望する学生たちが集まるクラスだったから、科目の多さには閉口した。

教養科目(国語、数学、理科、社会)や数的処理の科目、専門科目は憲法、民法、行政法、マクロ経済学やミクロ経済学、政治学や行政学、社会学やら財政学などなど。

もちろんすぐには担任の仕事は任されないだろうと思っていたので、これまで全く学んだことのない経済学はすぐには必要ないだろうとタカをくくっていた(後にこれは失敗だったと後悔した)。

せめて法律くらいは全部やっておきたいと思ったので、行政法を独学したのである。

薄い入門書と問題集を古本屋で買ってきて、三日ほどでやり終えて、一通りの基礎を学んだ。

現在では行政法関連の専門書はかなり多数の著書が出ているが、当時はそれほどの本はなく、また専門的な研究も判例も多くはなかった。

その意味では非常にやりやすい科目でもあったのである。

初日。

フリーターだった私はスーツも1着しか持っていなかったのでとりあえずはそれを着ていくことにして、ずいぶん久しぶりにきちんとネクタイをしめて専門学校に向かった。

靴もスニーカーしか持っていなかったので、近くのデパートの靴屋で革靴を買った。

靴や服装などには全く関心がなく、日頃から擦れた身なりをしていたが、これからはそうはいかない。

学校に着くと、事務室のようなところに通されて、書類を書かされ、今日は職員の全体集会があるとかいうことで、そこで自己紹介をするように言われた。

「初心を忘れることがないように」ということを大勢の職員の前で自己紹介で話した記憶がある。

専門学校に就職した時の私の初心とはなんだったのだろう。

自分が学んできたことや経験してきたことを生かしたい。そこで得たものや考えたことを学生たちに伝えたい。

目標を達成するためのに努力することそのものが幸せであることを教えたい。

そんな気持ちだったと思う。

この初心は時に打ち砕かれたり、時に大きく揺らいだりしながらも、ずっと持ち続けることができた。

専門学校で出会った学生たちの数はかなりの数に及ぶだろうが、本当に色々な境遇や個性の学生たちがいた。
たったひとつだけ言えることは、私が学生時代に大学で出会った多くの同級生たちよりも、専門学校で出会った学生たちの方がはるかに努力し、はるかに苦労をしていて、それでもはるかに生き生きとしていたということ。

目標を持つことの大切さ。

どんなことでも自分の進むべき方途を知っている人間の方が自分らしく生きていくことができる。

もちろん途中で自分の目標を変えたり、違う進路を選んだりする学生もいた。また自分の第一希望の目標の達成ができず第二希望、第三希望の進路を選ぶ学生もいた。しかし、そんなことはあまり重要ではない。その時々の環境の中で、仮の目標でもいい、精一杯全力で努力することが人生を豊かにするのである。

不本意であると思う進路を選ぶしかなくても、そこに行ったらそこで全力で頑張る。それが違うと思えば進路を変えて別の道を選ぶもいい。

「いつか」「いつか」と言いながら努力を先延ばしにして、今やるべきことや、今やりたいことを先延ばしにする人は多い。

しかし自分の人生の歴史は、結局今の連続でしかなく、過去をやり直すこともできなければ、未来を先に生きることもできない。

自分もこれから学生たちと共にそんな時間を生きていくのだと、心に言い聞かせた。











Kのノート。

「人間は何にでも成れる動物だ、何事にも慣れる存在だ」

この言葉は、ドフトエフスキーの小説に出てくる言葉だ。Kのノートには、自分で考えた言葉や、読んだ本から引用した言葉が無数に書かれていた。

大学生活にも慣れてきた頃。初心を忘れて勉強しなくなり、サークル活動や身近な人間関係の間で浮ついた日常を送り始めていた。惰性といった方がいいだろうか。

人間は大変な環境にも、楽な環境にもすぐに慣れてしまう。そしてそれを当たり前に感じて生きていく。

大学時代の貴重な時間は瞬く間に過ぎていく。

もう一度大学に入学したころの自分の初心に帰らなければ、そう思ったのはKの存在があったからだった。

Kは確かに、その当時は自分の将来について楽観的で、その気になれば何にでも成れる、きっと大きな仕事ができるようになる、と自分に言い聞かせていた。

周囲の大学生が毎日の遊びに興じている間も、Kは自分を失わず学部の勉強と読書を続けていた。そんなKの存在がなければ、私もまた自分を見失っていたに違いない。

20歳前後の時代に、自分の存在やその将来をあきらめたり限定してとらえるのは決して幸せではないだろうが、周囲の多くの学生たちはすでに将来に見切りをつけていた。

「公務員にでもなるよ」

「入れる企業に就職するつもり」

入学してすぐに、そんな声は多くの同級生から聞こえてきていた。

そんな雰囲気に反発して、私は周囲の同級生とはあまり話をしなくなっていた。Kとの会話が、自分のモチベーションの源泉であり、学問的、知的な探究心が継続したのは、Kもまた私と同じ気持ちだったからだ。

この大学生活に安易に慣れてしまってはいけない。人間は何にでも成れる動物だ。それを方向付け、決定するのはほかならぬ自分自身だ。

大学時代には数多くの未来への種子をまくことができるし、まかなければならない。

今の自分の在り方が、未来の自分を決めるんだ。

だから今のうちに精一杯の努力をすることを、自分に言い聞かせた。

自分に本来限定などなく、どんな存在にも変化していけるという可能性を、私に示してくれたのはKである。自分に自信など全くなかったが、「今自分がしていることに自信を持とう」と、そう思って大学時代を過ごすことができたことは、後々の私の大きな財産になった。

人間は本来はもっと柔軟で柔らかい存在だ。

自分で自分の可能性を限定し、周囲からの評価で決めつけ、もう変わらないのだとあきらめる。硬くなった心で自分や他人や世界を見るから、その可能性に気づかない。

学生時代にもしそのような気持ちで生活している学生がいたら、このKの言葉を送りたい。



kのノートの次のページをめくった。

「世界で一番強いものは、ただ一人立つものなのだ」という言葉が書かれてあった。


私がkと初めて会ったのは、大学1年生の初夏の頃だ。

大学の生協の本屋で、私が一人本を探していると、同じような格好で本を探している学生を見つけた。

私は大学に入学してから、毎日のようにコンパやサークルの飲み会に参加し、遊びまくっていた。バカ騒ぎをして一気飲みをして、カラオケを歌い。

そんな生活にも飽きてきたのか、サークルのコンパのあと一人で歩いて下宿に向かっているときに、言い知れない虚しさと孤独を感じたことがあった。

毎日がお祭りのような大学生活で、私のようなことを感じている学生がどれほどいたのかわからなかったが、結局人間はただ大勢の人間と一緒にいるだけでは、決して心からの幸せや充実を得ることができないということだけはわかった。

そのころから哲学や思想関係の本を読むようになって、文学や歴史の本もひもとき、自分の今後の人生の方向性を真剣に考えるようになった。

Kも私が探していた本と同じジャンルの本棚を食い入るように見つめていた。

私はKが自分と同じクラスであることはわかっていた。顔だけは新入生のガイダンスの時に見た記憶があったからだ。

本棚の前で、それとなく話しかけたのが、Kと私の最初のコンタクトの瞬間だった。

Kはあまり流暢にしゃべる方ではなく、自分の出身高校のことや、住んでいる場所、どんな本を読んでいるのか、また将来はどんな方向に進みたい、などということをゆっくりと話してくれた。

とても穏やかで落ち着いた口調だ。

あるフランスの詩人が大好きで、その詩集を愛読しているということだった。

私は、Kをもっと理解するために、その詩人の詩集を文庫で手に入れて、時々読んでみたりしていた。

Kもまた、クラスになじめず、なかなか友達ができず、大学に入学してから、色々なことに迷いが生じたようであったし、それを自分なりに解決するために、たくさんの本を読み始めたのである。

たくさんの人を理解し、たくさんの人に理解される人間が、一番強い人間だと、今の私は思う。

しかし、自分の核を作るべき学生時代に、孤独を恐れて周りに流され、自己を失うことは、人生の中で大きな機会を失うことになるのだとも思う。

すでにこの時Kはこのようなことを考えていたのかもしれなかった。

この生協の本屋の最初の出会いから、私とKの関わりは、卒業以降も続くことになった。

私とKが語る場所はいつも、生協の本屋の本棚の前。

そこで1時間ばかりも立ち話をして別れる。卒業までそれが続き、一緒に遊びに行ったり、お酒を飲みに行ったりしたことは一度もなかった。

いつも偶然に本屋でかち合った時だけが、Kと私の会話の機会だった。


「世界で一番強いものは、ただ一人立つものなのだ」


Kはそうであることを望んでいたのかどうか。

今となってはその答えを聞くことはできない。









「人生とは、切符を買って軌道の上を走る車に乗る人には、わからないものである」

Kのノートの最初に書かれたこの言葉の意味を、自分なりにもう一度考えてみた。

「切符を買って軌道の上を走る車」。これは何を意味しているだろう。

お金さえ払えば、黙っていても、ある場所に運んでくれるもの?

実際は人生においてそのようなものは存在しないだろう。どんなにいい学校を出ても、いい企業に就職できても、また誰と結婚しても、どんなにお金があったとしても、それが人生の充実と幸福を保証するとは言えない。

しかし、考えてみると、どんな時でも、どんな環境でも、いつも切符を買って軌道の上を走る車に乗っているような気持ちで生きている人はいる。

自分の主体的な人生を放棄し、いつもいつも何かに寄りかかって、自分で自分の人生を生きていない人だ。

自らの主体的な関わりなしに輝く人生なんて、どこにもないというのに。

Kは自分勝手に生きていたように見えたが、決して他人に寄りかかったり、他人のせいや環境のせいにするような、そんな考えを持っていなかった。

どんな選択も、どんな行動も、どんな決断も、全ては自分がやったこと、自分の責任だと言っていた。

環境が悪かったから自分はダメになった、他人が悪かったから自分は落ちぶれた、上司が悪かったから仕事が楽しくなくて辞めた、結婚相手を選び間違えたせいで、自分の人生が不幸になった、親がどうしようもない人だったから自分もグレた。

このような考えは、この社会のいたるところに蔓延している。

しかし、結局はその人は、その環境や境遇の中における選択において、そしてそこでの考え方において、敗北したのである。

実は、人間はどんな場面においても、どんな環境においても、幸せに近づく選択をすることができる。

その選択ができないと嘆いている人は、すでにその環境の中に、自分の人生を預けてしまったということなのだ。

Kは少し極端なくらいに自分に矢印を向ける人で、いつも自分が悪かったと言っていた。そして自分の判断や選択に色んな人を巻き込んできた、と語っていた。

Kは、私から見ると気が小さく、気弱に見えたりもしたが、自分の責任を自覚していたという点においては、勇気のある人だったと思う。

切符もなく、決められた軌道もなく、そして勝手に走る車も、Kの心の中には存在しなかったのだろう。

自分に起こる全てのことを、実は自分が起こしているのだと、私は考える勇気が持てるだろうか。

Kのノートを手にしながら、そんなことを考え続けた。








私の今は亡き親友(20年前に事故で他界)からもらったノートを開いた。

最初にこんな言葉が書いてあった。

「人生とは、切符を買って軌道の上を走る車に乗る人には、わからないものである」

一体誰の言葉なのか。彼(Kと呼ぶ)が自分で考えた言葉なのか、それとも何かの本から引用したものなのかはわからなかったが、まさにKにはぴったりの言葉かもしれなかった。

切符を買って軌道の上を走る旅が、決して快適でないわけではない。

しかし、人生はいかなる時に脱線し、方向が変わっていくかも分からず、また転覆するかもわからない。

人生が無軌道であるべきだ、とは思わないが、無軌道な人生が悪いとも思えない。

Kの人生は、まさしくそのようなもので、私たちが彼の行動の理解に苦しむ場面は、決して少なくはなかった。
突然、突拍子もないことをやり始めたり、結婚してからも、家を飛び出したり、なんだか落ち着かない様子だったようだ。

Kの生まれた場所は、北海道である。実は北海道のどこであったか全く知らないし、聞いたこともなかった。

その後は父親の転勤で大阪に引っ越して、そこで小学校の時代を過ごした。大阪は楽しかった、というようなことをよく口にしていたから、小学校の時はいい思い出がたくさんあったのだろう。

中学の上がる時に、今度は九州は福岡に引越し。

福岡の少し僻地だったようで、大阪弁を話すKは、うまく周囲にとけ込めなかったという。

時代のせいだったかもしれず、また地域性もあったかもしれない。なかなか周囲に馴染めなかったKは学校には行っていたものの、学校から帰ると引きこもってしまい、友人との接触は少なかった。

父親は商社マンで、いつも海外を仕事で飛び回り、母親も仕事で家を空けることが多かったらしく、彼は5つ歳の離れた弟の面倒を見ながら生活していた。

高校時代が終わるまでは福岡で生活していたが、大学に入るときに鹿児島にやってきた。

私がKと知り合ったのは、まさにこの大学時代である。

鹿児島大学は法文学部という学部があり、私は法学科、Kは経済学科であった。

もとより経済学など全く興味関心はなかったらしく、自分の高校時代の学力から判断してここしかなかった、というようなことをよく口にしていた。

Kは結局、この大学も1年と数ヶ月でやめてしまう。

かれは大学を辞めた後に東京に行って、かなり滅茶苦茶な生活をしたようで、事故で命を失うまで、それは変わらなかったのである。

平凡であることを嫌い、しかし平凡に憧れ、軌道に乗るような人生を軽蔑したが、しかしいつも自分の人生を軌道に乗せようとあがいていた。

それそのものが無軌道に思われて、結局Kは、ノートの最初に書いてあったその言葉を、例え意図的でなくとも実践していたことになる。

言葉が人生をつくる。

K自身がノートにしたためたこのたくさんの言葉は、かれの人生を創造する力を持っていたのだろうか。

それはこのKのノートを読み進めなければわからないことだろう。



24歳で学校を卒業し、28歳で就職が決まるまで、ほとんど休むことなく働き続けたが、ここにきてようやく2週間ほどの休暇を得ることができた。

古い書物や荷物を整理していた時に、古いノートがたくさん出てきた。

自分で学生時代に書き続けた日記や学んだこと記したノート。読書録や大学院時代の研究に使ったたくさんのノートだ。

その中に、懐かしい匂いのするボロボロのノートがあった。

私の高校時代の親友が私に託したノートだった。あまりの忙しさと、目まぐるしさに、あの時から一度も見ることのなかったノートだ。

あの時。

このノートの持ち主であった親友は、数年前に事故で亡くなっていた。

事故で亡くなる数日前に、彼は突然私に連絡してきて、会うことになり、二人でカラオケボックスに行った。何年も何年も会っていなかったが、まったく昔と変わりない。

カラオケボックスに行ったのに、一曲も歌を歌うことなく、ただただ話し続けた。

彼はこれまでの数年間で迷惑をかけた人々への謝罪の気持ちや後悔の思い、そして自分の犯した罪を洗いざらい私にぶちまけて、「誰にも話していなかったことだが、お前だけは知っておいて欲しい」と最後に付け加えた。

その時に私に一冊のノートを託したのだった。

彼がこれまで生きてきた中で、考えてきたことや心の糧にしてきた言葉がたくさん書かれていた。

なぜ彼は私にこのノートを託したのか、それは今でもよくわからない。

カラオケボックスを出て、しばらくは車でぐるぐるととりとめもないドライブをして、私の住むアパートの前についた時には午前2時を過ぎていた。

彼の最後の言葉は全く記憶にない。

それだけ日常的な会話の中で、永遠の別れを告げたのだ。現実を見れば、人と人との別れなんて、ほとんどがそのようなものなのだろう。

アパートの部屋に戻った私は、そのノートを見ることはなかった。

彼の事故死を知った時も。

それから3年が経った。私がこれから若い世代の学生たちと向き合わなければならない時に、このノートが再び私の手の中に現れたわけだ。

そのページをめくることに何か意味があるかもしれない。

この時はそう思って、ある夜、一人で静かにそのノートを開いてみることにしたのだ。



専門学校の講師の仕事に応募して、無事に内定をいただくことができた。

11月1日からの出勤と決まった。28歳の年だ。

今まで勤めていた虎ノ門病院の仕事を終えるとき、病棟で送別会を開いてもらった。

この病院で、仕事を通じて知り合った人は非常に多く、患者さんや病院のスタッフから学んだことは本当に多かったし、今でも私の貴重な財産だ。

病院という現場の仕事の大変さは想像以上であったし、病気で入院している患者さんに教わったことや、入院してもついには亡くなってしまった患者さんとの記憶は今でも忘れることはない。

病院で毎朝、毎朝一人で勉強していたこともいい思い出になった。

これからは、自分が学んだことを多くの学生に伝えながら、また自分のも、違った意味での勉強を続けていかなくてはならない。

しかしそれは、私にとって、非常に楽しみなことだった。

自分の知識や学力に自信は全くなかったが、24歳から28歳までの4年間、多くの人びとの間で揉まれながら身につけたことは、きっと自分のためだけでなく、多くの学生たちのためになるのだろうし、彼らの人生のなんらかのたしになるに違いない。

1993年11月1日。

東京法律専門学校での教師としての生活が始まった。

そこから16年あまりの教師生活。そこでも多くの学生たちに出会い、たくさんのドラマがあった。

この年齢になって思うのは、自分の人生を物語にしたときに、読み応えのある物語が出来上がるのかどうか、短調でなんの感動も変化もない、そんな物語になってしまうのか、その違いは重要であるということだ。

内村鑑三という人の本に、「後世への最大遺物」という本がある。

自分が死んだあとに、著書という形で思想を残す人、多くの財産を残す人、名声を残す人、色々な遺物があるが、誰でも残すことのできるもの。

それは、その人固有の人生の物語。

そこに感動があり、多くの学びがあり、人間としての成長がある、そんな物語だろう。

失敗や挫折も、後には大きな教訓やドラマとなる。

少なくとも、自分が後々、自分の人生を振り返って、多くの後悔を感じるような、もっとやりたいことがあったのにと感じるような、そんな生き方だけはしたくないものだ。

人は、やったことよりも、やらなかったことを後悔するという。

私は、そんな人生の貴重な意味や価値を、学生たちに伝えることができるだろうか。



フリーターだった私が専門学校の講師に応募して、二次面接まで進んだ。

その間も虎の門病院での仕事は続いており、毎日が病棟と検査室との間を走り回る日々が続いていた。虎の門病院には、職員に専用の図書室があり、昼休みなどはそこで勉強することも多くなった。

ただ、かなり体が疲れていて、体が動いていないときは眠くて仕方がない。病院での仕事は重労働でいつも足が重たかった。

通常は月曜日から土曜日まで病院の仕事があり、専門学校の採用の二次面接は、日曜日にしてもらった。

指定された日曜日の午前、電車に乗って錦糸町まで向かうつもりだったのだが、前日から台風が吹き荒れており、中野まで出たところで、電車がストップ、それ以上はすすめなくなった。

復旧の見通しがなかったので、駅の公衆電話からその旨の電話を入れて、二次面接はキャンセルになった。

なかなか前に進まない感があったが、結局二次面接はそれからさらに二週間後の日曜日に行われた。

聞かれた質問は、一次面接の内容とほぼ同じで、今度は自信をもって答えられたと思う。

この面接で合格となれば、あとは健康診断を受ける。

それで問題がなければ正式に採用だ。フリーターになってからというもの、健康診断など受けたこともなかったが、自分の健康だけは過信するほどの自信をもっていたので、面接に合格すれば大丈夫だろうと思った。

最近は面接や就職の対策本などがたくさん出ている。情報が多くて、学生たちも大変だろう。

私は自分が専門学校の講師になって、学生の就職などをサポートする立場に立つまでは、就職の対策本などを読んだことは一度もなかったし、当時はそれほど多くの対策本も存在していなかった。

長い長い不況を通り越して、若者の就職が困難になり、その需要に応じて、対策のノウハウ本や情報はどんどん増えていったようにも思う。

しかしどのような場面でも、結局は自分の言葉で自分のことや他人のこと、社会のことを語ることができなければ、幸せからは遠い気がする。

自分を見つめ、自分自身と対話した深い経験が、固有の人生を作り出すのだと思う。

就職活動にはさまざまなテクニックや技術は必要かもしれないが、おそらく採用する側からすれば、そのような表面上の取り繕いを見破ることは容易なことなのではないだろうか。

この後に、自分が実際に採用面談などを担当する立場に立って、ノウハウ本に書かれている通りに履歴書を記入してくる新卒の学生を見て、うんざりした記憶がある。

他人に自分を知ってもらい、自分を理解してもらい、自分をPRすることは、それほど安易なことでもなければ、紋切型の言葉で表現できるものでもない。

やはり若い学生たちには、自分らしい就職活動を行って、そのプロセスで成長してほしいものだと思う。

就職が難しくても、自分を責める必要もないし、自信を失う必要もない。

やはり自分を深く掘りながら、他人や社会と対話して、自分の場所を決めて欲しい。

誰かにお墨付きや評価をもらわなければ自分の価値がないのだと考えるほど悲しいことはないだろう。自分が行くべき道は結局自分で決めるしかないし、それは誰のせいでもないのである。









朝の4時30分に起きて、それからいつものコインシャワーに向かった。

今はあまり存在していないが、100円玉を入れることで5分間シャワーが出るコインシャワーというものが近くにあった。

お風呂のない物件などは当時結構あって、銭湯なども近くにあったし、利用者もそれなりにいたものである。しかし銭湯はそのころから値段が高くなっていて、毎日利用すると結構な金額になってしまう。

病院の仕事なので、清潔さは要求される。私は朝からいつもこの100円シャワーを利用していた。

5時30分過ぎには電車に乗って虎の門病院に向かい、24時間開いている職員の休憩室(確か8階にあった)で勉強を始める。読書が中心だが、語学だとか法律だとか、好きな勉強をする。

ナースエード(看護助手)の仕事は8時から始まるので、少し前に病棟に行き、準備をする。夜勤の看護師さんたちが仕事をしている。時間が不規則で本当に大変な仕事だ。

私は7階の病棟が持ち場だった。耳鼻科、神経内科、脳外科の病棟である。

この仕事で、どれだけ自分の健康に感謝したかわからない。人間が健康を害したら、本当にどんな人もその能力や可能性を、ことごとく制限されてしまう。

芸能人、政治家、一般の人々。ここでは誰でも1人の患者だ。

私は専門学校の採用試験を受けているときも、残り少ないこの病院での経験や出会いは大切にしなければと思っていたし、そうしていた。

ただこの段階では採用試験を受けていることなどは誰にも内緒にしていた。どこかに採用が決まるまでは、この場所で働き続けるつもりだったからだ。

専門学校の講師に採用される自信はなかったのだが、いずれにしても、この病院を出ていく日が近いことだけは確かな気がしていた。

今では就職試験の結果はメールや携帯電話で連絡が来るだろうが、当時は携帯電話などはほんの一部の場所で使われていたにすぎない。

インターネットも一般には普及しておらず、情報という意味では、ほぼ何もないに等しい。

私は固定電話もなかったので、先方からの連絡は郵便のみであった。

一次面接の合否結果は、郵便で送られてくるのを待つしかなかったわけである。

私と同じ日に面接を受けたメンバーは、すでに社会人として立派な実績のある人もいたし、深い専門知識を有する人もいた。畑違いの看護助手である私が採用される可能性は高くなかっただろうと思う。

可能性があるとすれば、その専門学校には「公務員試験」を目指すコースがあり、一般教養試験や法律、経済学などの知識が必要とされたことと、完全担任制をうたっていた(当時)専門学校だったので、一部の専門家よりも知識の幅が広い人間のほうが向いているという面があったことだろう。

私は読書だけはしていたので、自分の知らない分野でも一から勉強すれば教えられると思っていた。要するに、日本語で書いてあれば、読んで理解できない本はないという勝手な自信を持っていた。

所詮人間の書いた本であるし、人間が作ってきた専門分野だ。理解は可能であると。

学生時代に多少学んだ専門分野の本を古本屋で何冊か買って、勉強し始めたころ、その専門学校から一次面接の合格の封書が届いた。
















専門学校の講師の求人に応募して、筆記試験と面接試験を受けることになった私は、無事に筆記試験を終えて、面接に移った。

筆記試験は一般教養の試験だけで、専門知識は問われなかった。

ちなみに筆記試験では埼玉県の県庁所在地を「大宮市」(当時は浦和市、現在はさいたま市)と自信満々に書いたので、私の教養もたいしたことはなかったのだが。

面接に関して、私は完全に個人面接であると決めつけていたので、休憩中にあれこれと勝手にシュミレーションしたりしていた。

ところが、面接の始まる直前に係りの人がエレベーター前に順番に並ぶように指示をしたのである。

その順番で面接室に入るように説明を受けて初めて、私はこの面接試験が集団面接であることを知った。もちろん正式に就職面接など受けたことはなかったので、入退室のマナーや手順もまるで知らなかった(こんな私が翌年には学生たちに面接の方法などを指導していたのだから世の中は全くわからないものだ)。

私は前から三番目だったのだが、恥ずかしいことに前の人の入室の仕方の真似をして部屋に入っていった。

集団面接の受験者は6人。

面接官が4人だったと記憶している。

集団面接の難しさは、どうしても自分以外の受験者の受け答えを意識してしまうことである。

前の人が自分の考えと同じようなことを言えば、違いを出そうとして別のことを言おうとしてみたり、あれこれと気を使ってしまう。

最初の質問が、説明会で流されたこの学校の紹介ビデオの感想だった。

順番に答えるように指示があったので一番の受験者がしゃべり始めた。どう答えようかと考える時間があるところは集団面接のいいところだ。

私は学生時代に無目的で退廃的な学生たちの姿を、自分の学生時代に嫌というほど見てきたので、その専門学校の紹介ビデオでみる学生たちは非常に新鮮に見えたものだ。

基本的に専門学校は目的意識が明確な学生がほとんどで、また修業期間も基本的に2年と短いために、非常に密度の濃い学生生活を送る。

協力して勉強したり、協力して学校行事をやり遂げる学生の姿には素直に感動した。
面接ではそのことをそのまま語った。

当初は緊張や様々な思惑もあったが、他の受験者の話を聞いているうちにだんだんどうでもよくなってきて、全て正直にしゃべろうと思った。

なにぶんフリーターだった私は、職歴もなく、たいした知識もなかったので、受かればもうけものだと思い、あれこれとめんどくさいことを考えることをやめたのである。

フリーターの時の経験や出会った人々、自分の学生時代に関して、普段考えていたことをしゃべった。

この当時はまだ虎の門病院で看護助手をしていたのだが、看護助手の仲間たちや看護師さん、そして患者さんといろいろな話をたくさんしていて、自分の考えや生き方を理解してくれる人がたくさんいてくれたことで、それを言葉にして語る習慣ができていた。

自分のことに関して聞かれた内容に関して面接で困ることはなかったのである。

その意味で、虎の門病院で出会った多くの仲間たちや看護師さん、患者の皆さんには今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。

自分の言葉は自分自身の力だけでは、決して紡ぎだすことはできないのだ。

面接試験に合格する自信はなかったが、言い残したことや、うまく言えなかったということはなく、後悔の全く残らない面接になった。

面接を終えて電車に乗り、高円寺の自室にもどって、また明日の準備を始めた。

朝の4時30分に起床して6時には病院へ。2時間勉強や読書をしてから仕事に入る。

この時も、この習慣は続けていた。




自分らしいライフスタイルを生み出す4つのステップ











景気が悪化して、そろそろ就職しなければと思い、専門学校の求人を見つけてそこに履歴書を出したわけだが、実はそこ以外の求人にも応募はしてみた。

一つは塾業界、もう一つはあの有名なベネッセだ。

私が専門学校の求人以外に応募したのはこの2件だったが、ベネッセは書類で落とされた。塾の方は面接に来るようにという連絡がきたが、考え直して辞退した。

勝手な話だが、専門学校の講師の求人に絞った形となってしまった。

正直に言えば、自分が専門学校で学生たちに教えるなんていうことができるとはとても思えなかったし、その自信も全くなかった。

しかしなぜだか縁を感じて、とりあえずはそこの試験に落ちるまでは、ほかの活動は一切やらないことに決めたのである。

1週間ほどして、その専門学校から筆記試験と面接を受けるようにとの電話連絡を受けた。

これまでアルバイトの面接は何度も受けてきたが、正式に就職面接を受けるのはこれが初めて。スーツもリクルートスーツなどではなく、学生時代に何か正式な場所に出席するためにと父親が買ってくれたグレーのスーツしか持っていなかった。

面接の準備をしなければとも思ったが、お金もなくいろいろな情報収集のための本を買う余裕がない、というより、この時はどんな準備をすべきかの情報が全くなかった。私はこの当時家賃1万2千円の3畳一間の部屋を間借りしていて、狭い部屋に大量の本を積み重ねて生活していたから、余計なものは買おうとも思わなかった。

筆記試験もいったいどんな問題が出るのやら皆目見当がつかない。

しかも筆記試験と面接試験までの余裕の日数はほとんどない。腹を決めて、何もせずそのまま試験に挑むことにした。

それで落ちたらそこに行くだけの資格がないのだと考えて、また分相応の場所を探せばいい。そう思ったのである。

私の住む高円寺からその専門学校のある場所までは、電車で30分ほど。

試験の日は、張り切りすぎてかなり早く現地に到着してしまったので、古臭い喫茶店に入って、あまりおいしくないランチを食べ、めったに飲まないコーヒーを飲みほしてから面接場所に向かった。

受付で名前を言うと、ロビーで待つように言われた。

そこには私と同じ採用試験の受験者が5~6名座っていて、緊張した面持ちで座っていた。そんな他人を見ていると自分もだんだん緊張してきて、無謀なことをしているような不安に駆られたりしたものだ。

その日は説明会と筆記試験、一次面接をいっぺんにやるということで、かなり長い時間拘束された記憶がある。

説明会ではその学校の紹介ビデオが流されて、仕事内容の説明が行われた。

しばらくの休憩が取られて、次はいよいよ面接試験である。



教員採用試験 面接試験の真相












結局、大学院を修了してから4年間、フリーターとして様々な仕事をしてきた。

就職したり、経済的な成功をおさめるためには学歴などはそもそも何の必要もない。また経験だけがあっても、それが就職先やお金儲けにつながるわけではない。

大学院の時代も含めれば、実に数多くの人々に出会ってきたし、無数の本も読んできた。仕事もたくさんやったし、種類もたくさんこなした。

これまでの経験や勉強を何のために、どのように生かしたらいいのだろうと、そればかりを考えた。

世間ではいわゆるバブルが大きくはじけて、日本の景気や雇用状況は一気に悪化しつつあった。

このころには、自分自身で何か新しいことを始めたり、起業したりなどという選択肢は考えたこともなかったし、必然的にどこに就職するか、という問題に直面した。

その当時にやっていた様々な仕事、家庭教師、塾の講師、便利屋、病院の仕事などのうち、病院での仕事を残してあとはすべてやめて、本格的に就職活動に入ろうと決めた。

「この不況は長引くから、早くきちんと就職したほうがいい」

仕事の休憩中に病院の事務長が私にそんなことを言っていた。私もまったく同感で、この不況は10年以上は続いてしまい、容易に回復しないのではないかと思った。

就職の情報誌を立ち読みしたり、買って読んだりして情報を集め始めた。

やはり教育に関わる仕事しかないと思った。

自分のやりがいや生きがいはそこにしかないだろうと。

通常の就職情報誌に学校関係の求人が掲載されることは少なく、私が探した中でも、学習塾関係の情報が一番多かったと記憶している。

その中で、専門学校の講師の募集の記事を見つけた。

しかし、私が教えられることは少なく、専門性の高い知識を有していたわけでもなかった。しかしたくさん本だけは読んでいたので、一般教養のようなものは教えることができるのではないかと思った。

そこで、ダメもとで履歴書を送ってみることにしたのである。

これが私がフリーターを脱出し、正式にいわゆる「正社員、正職員」として初めて就職するきっかけになったのである。

恥ずかしながら、当時は履歴書の書き方も知らず、また就職面接など受けたこともなかったので、準備としてはいい加減なものであった。

ただ私は、これまでにやってきた仕事や出会った人々から学んだことを明確に言語化することだけはできた。言葉や経験をてこにして考えるということは好きだったので、よく日記を書いていたからだった。

またなぜ教育や学校に関わる仕事をしたいのか、という志望理由も明確だった。

だから何の準備もせずに面接に行っても、何とかなるだろうと高をくくっていたのである。

とりあえずは市販の履歴書を買ってきて、履歴書を作成した。当時は職務経歴書などは特に必要とされなかった。何度も書き損じながら何とか完成させ、郵送したのを今でもよく憶えている。

あとは連絡が来るのを待つだけだった。



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東大式・内定獲得術 30社以上落ち続けた学生が、一流企業の内定を勝ち取ることができた大逆転就活ノウハウ
自分のこれまでの人生を振り返ってみると、健康には本当に恵まれていて、大きな病気をしたことが一度もないことに気づく。

健康。

人間が当たり前に思っているこの状態は、決して当たり前のことではない。それに気がつくのはやはり病気になった時だろう。あるいは事故に遭って大けがをしたり、そんな状態になった時に、昨日まで当たり前に考えていたことが実に価値の高いものであることがわかる。

これまでに病院に入院したことが確か三度あった。

大学1年の時にバイクに跳ね飛ばされてけがをしたとき(鹿児島時代)。

職場の送別会でお酒を飲みすぎてぶっ倒れ、そのまま運ばれて一日だけ入院した時(東京時代)。

頭痛がして病院にいったら「即入院」と言われて一週間くらい入院し(家族を呼ぶように言われたのでこれはヤバイと思ったが)、調べたら何ともなく、あっという間に復活した時(名古屋時代)。

病院とはほとんど縁のない生活をしていた私は、フリーターの時に、東京は港区の虎の門病院で働くことになった。

なぜ病院で仕事をしようと思ったのか、自分でもよくわからなかったが、その当時に何か考えるところがあったのは間違いがない。

虎の門病院は大きな総合病院なので、各フロアには多くのスタッフがいて、その中で「看護助手」という仕事がある。私はこの仕事をすることになったのである。

当時は景気も良く、働き手が不足していたのだろう。求人の広告を見て応募し。面接を受けたら、すぐに採用がきまった。もちろん正社員ではなくアルバイトである。

人の世話など皆目したことのない私が、医者や看護師の手伝いをしながら、患者さんの世話をする仕事をすることになった。

ここで学んだことは非常に多かった。数多くの人々との出会いがあり、人の生き様や死にざまをたくさん見た。

人生観が大きく変わったことと、自分がこれまでいかに恵まれていたかを実感した。

病気について、老いることについて、死ぬことについて、生きることについて。

やがては教育に関わる仕事をすることになるだろうと思ってはいたが、その前にこのような仕事をさせてもらえたことが、大きな財産になった。

私はこの病院の仕事を3年ほど行なった後、専門学校の教員となり、多くの学生たちにこの病院での経験を語ることになったから、やはり必要なプロセスだったのだろう。

毎日の忙しい仕事の細部に、自分に対する多くのメッセージが隠されていた。

それをつかむことができる程度に、まだこの当時は感受性が豊かだったのだと思う。

虎の門病院のスタッフはみんな親切でいい人が多かったし、若い看護師たちも大変な環境の中で一生懸命に働いていた。病院の現場がこんなに大変なのかということもわかった。

いわゆる3Kといわれた仕事であったが、自分が健康であるがゆえに、病院で人の世話ができるということ自体も、実は幸せなことだったのだ。















この時期、大学や短大、専門学校などの学生の就職活動が盛んである。

やや、景気が上向きかけているとはいえ、なかなか内定をもらえずに悩んでいる学生も多いことだろう。

自分が生涯やっていく仕事を、本当の意味で自分の自由意思に基づいて、納得して決めていくことができれば、それは本当に幸せなことだろうが、なかなかそうはいかないのが、世の常である。

たくさんの企業を受けてみても、評価するのは、結局人間である。仏教の言葉にあるように「すべての人に褒められる人もいなければ、すべての人に謗られる人もいない」。

他人の評価というものは、本当に様々で、また同じ人が時を違えば以前と異なる評価をすることもある。

就職活動における合否も、その時点でのあなたに対する、その時点での相手の価値観や、企業の価値観にもとづく評価ではあっても、それは決して、あなたの本質や、普遍的な姿をとらえてなされたものではない。

一つの企業に落ちたからといって、落ち込んで自分を否定する必要もなければ、悩む必要もない。

全力で自分らしくぶつかって、結果が出なかったときに、それをどのように考えるか、そこから何を生み出していくかも、全くの自由なのである。

就職できない若者、という言葉が言われることがあるが、企業に雇われる人生が普遍的であるわけではなく、また、自分に合っているかもわからない。

自分がどのような形のライフスタイルをよしとするのか、それをよくよく考えて、進路を決めていけばいいということなのだ。

学校で学ぶことは、基本的に「サラリーマン」として生きていくために、大切なことが多い。

例えば雇われない人生や、自分で富を作り出す人生、組織の束縛のない人生を生きるために必要なことが教えられることは少ない。

リスクが高いように見えても、自分で何かを始めて、生計を立てていける若者も数多くいて、そのような若者は、就職活動という流れからは、敗者に見えたりしているだろうが、それは世間の一般的評価であって、実際は有益な仕事をし、富を生み出し、多くの人に貢献している人間も多いものだ。

ほとんどの学生が流れていく、この就職という言葉の大河を離れて、独りで自分なりのライフスタイル構築し、生きていける強さを持つものが、実は次の世代の成功者と呼ばれる人かもしれない。

就職活動を通じて、いろいろな世間的な評価や価値観を学ぶかもしれないが、そこから余計なものを取り除いて、砂金を取り出し、自分の固有の人生に生かしていくこと。

採用試験ではいろいろな評価をもらうだろうが、それもやがては流れていくものだ。

未来を決めていくのは、決してそのような流れては消えていくような他人の評価ではない。

現在から未来を突き通すことができるのは、やはりあなたの決意や意志や夢や目標に他ならない。浮草のような他人の感情や、それに基づく自分の感情の流れに左右されず、いつも見続けることのできる未来像を手に入れることが、もっとも大切なことなのだ。













便利屋のアルバイトは実に様々で、朝早くから夜遅くまで、実にいろんな仕事があった。

今でもよく憶えているのは、確か小平にあるブリジストンのタイヤ工場で、そこから出荷されるタイヤを大型トラックに積み込む作業があった。

もともとはトラックの運転手や助手が二人で積み込みをやるというものだったようだが、何せ二人ではとても大変。大小大量のタイヤを転がし転がしトラックに積み込むのだが、時間もかかるし、半端でなくきつい。

そこで、わが便利屋に仕事の依頼がきたのであった。

このようにいろんなところから仕事の委託を受けて手伝うということも数多くあったものだ。

朝から夕方まで引越しや掃除や、いろんな仕事をした後で、このタイヤの積み込み作業が夜間に入った時はもうよれよれで立ち上がれないほどに疲れ果てた。

私と便利屋の社長は、タイヤを運ぶことにかけては素人だ。

全く要領がわからず、タイヤがコロコロと違う方向に転がったり、1本1本バラバラで運ぶものだから時間もかかってたくさんのタイヤをいっぺんに運ぶことができない。

しかし、トラックの運転手は違う。5.6本のタイヤを横に並べてうまく転がし、多くのタイヤを同時に荷台に運び込むのである。

私は悪戦苦闘しながらそれをまねたが、ある程度できるようになるまでに相当な時間がかかってしまった。

どんな仕事にも職人技はあるものだと、この時に感じた。

プロとアマの違いというかなんというか。圧倒的に仕事量に差があるのである。

この世界にはさまざまな仕事がある。そこには大小さまざまな技術があって、それぞれの場所に高い技能をもったプロがいて、仕事が回っている。

自分たちの日常も、このような多くの人々の小さな技術の集積でその豊かさが担保されている。

そのようなことを考えていると、職業に貴賤なし、ということの意味もよくわかった気がした。

自分の身長ほどもあるタイヤをうまく転がしながらスイスイと運んでいくトラックの運転手を見ていると、何年も経験を積んで、短時間で少ない労力で仕事をこなす術を身につけた人には、なかなかかなわないものだと思った。

夜の11時近くまでタイヤを転がし続けて、電車で家に帰りつくころにはいつも午前を回っていた。

積んでも積んでもトラックがいっぱいにならず、タイヤを運んでいる時間が異常に長く感じられたあの時のことを、少しタイヤの大きな乗り物を見たときには必ず思い出してしまうのだ。











自民党の学生部にいたときに、都議会議員に頼まれて、支持者回りをしたことがあった。

よくあるあいさつ回りをかねて、議員のポスターを張ってもらうようにお願いするというやつである。

数人でポスターや地図などを持って、一件一件戸別訪問をしていくのである。

ある支持者のお宅をお伺いした時に、そこのご主人からなぜか怒鳴りつけられ、しこたま怒られたことがあった。もちろん私たちが悪いことをしたわけではなく、そこのご主人はその都議会議員に対する溜り溜まった怒りを、たまたま訪ねてきた私たちにぶつけたのである。

どうも話を聞いていると、その議員が支持者と約束したことを守らないだとか、ちっともあいさつに来ないだとか、とにかく色々な点で、その支持者に恥をかかせたり、気に入らない言動があったらしいことが分かった。

私たちは支持者ということを聞いていたので、無防備に訪ねていったわけで、突然怒り出し、怒鳴りだしたご主人を見て、ただうろたえるのみであった。

なんだかよくわからないが、ひたすら平身低頭、謝りに謝って、その場を後にした。

選挙で票をもらうために、このような場面はひたすら謝るしかないのだろうが、果たしてこの支持者の言っていたことがすべて正しいかはわからない。

いろんな誤解があったり、行き違いがあってこのようになったのかもしれない。

ただ、この支持者が、決して「東京都」のことを思って、そのために議員が都政にとってマイナスだからという理由で、叱ったり怒ったりしているのではないことだけはよくわかった。

一体なんのためにこの議員を支持している人なのか。

それを考えたときに、民主主義の可能性と限界を同時に感じたのである。

いろんな人の意見を聞く、いろんな人から支持を集める、いろんな人の多様な価値観を理解する。

このような観点から、一定の意見や政策に、それを具体化させ、反映させていくのはいい。

しかし、考え見ると、支持者である一般の都民は、いつも東京都のことや都政について考えたり学んだりしている人ではない。自分の身近な職業による利害、知人や友人の人間関係によるつながりやしがらみ、そのようなものから決して自由ではないのが、一般の有権者である。

議員とはそもそも立ち位置が違うのだ。

そのような人々からの支持を集めなければ、選挙に勝てないし、議員にもなれない。

忙しい中でも、町内会の運動会に来てくれないというだけで、支持を失うかもしれない。

葬式や結婚式に足を運ばないだけで、支持を失うかもしれない。

それが、大衆民主主義のもとに置かれた議員の宿命なのだ。

支持者周りをしているうちに、この時代に政治家として仕事をしている人の苦労や困難や、大変さが身にしみた。

民主主義はただ多数決を制度的に保障するだけなら簡単だが、本当の意味での理想的な民主主義の実現は極めて難しいものだと思った。

企業の経営でも、民主主義的に物事を決めようとする経営者は会社をつぶすかもしれない。

国民の声に耳を傾けすぎた政治家は国をつぶすかもしれない。

しかしやはり1票は国民一人一人が握っている。

その支持を得ながら、大局を見据え、国家に関わる仕事をするというのは、とても大変なことだ。

なにせ国会議員の選挙のときでさえ、国民は必ずしも、国家のことや、社会全体のことなどを考えていなかったりするし、その知識もない場合も多い。

くたくたになって支持者まわりを終えて、その議員に支持者に怒鳴られたことを恨みがましく報告すると、その議員はこう言った。

「ああ、あそこのおやじはいつもあんな感じなんだよ。気にしない、気にしない」

さすが、民主主義を生き抜く政治家である。














明治大学の大学院時代には、大学に通いつつ、便利屋のアルバイトをやり、自民党の学生部にも所属しているというわけのわからない生活をしていた。

便利屋の仕事で、同じおばあちゃんから1年に2回、引越しの依頼を受けたことがあった。

羽村あたりに住んでいたそのおばあちゃんは、富士山が見える景色がきれいで自然に囲まれた場所に物件を買った。そこに移り住むのだということで、引越しの依頼があったのである。

おばあちゃんは一人暮らし。荷物はさほど多くなく、移動時間を含めても十分一日で仕事を終えることができた。まだ夏だったのだが、引越し先の場所はとても涼しくて、たくさんの自然に囲まれた場所だった。
それはよかったのだが、周りが森や林という人気のない場所で、買い物にお店に行くにも歩いて10分以上はかかる。今はいいが、冬になったらお年寄りがたった一人で大丈夫だろうかと、ふと思ったりもした。引越し先には物件を売却した不動産屋も来ていて、「店も歩けばすぐに行けるし、大丈夫です。とても景色が良くていいところでしょ」などと言っていた。

ただ確かに富士山が真正面に見える景色のいい場所だったので、おばあちゃんはとても満足げだった。

それから何か月も過ぎて、真冬の時期に再び便利屋の電話が鳴った。

そのおばあちゃんだ。付近が積雪に埋もれてしまい、外にも出られない。助けて欲しいというのである。

行ってみると腰の高さほども雪が積もり、その家に行くにも大変な状況だった。雪をかき分けかき分けおばあちゃんの家までたどり着くと、泣きそうなおばあちゃんが一人で待っていた。必死で救出し、おばあちゃんの知り合いの家に送り届けた。

雪が解ける春になって、再び便利屋の電話が鳴った。

そのおばあちゃんが、今度はその富士山の裾野から、もとにいた町にもどるための引越しを依頼してきたのだった。なぜその富士山の見える物件を買ったのかと尋ねてみると、どうも不動産屋にだまされたようで、話が違うことに、住んでみて気づいたらしい。

不動産屋は物件が売れれば、相手は誰でもよかったのだろう。季節のいい時期に別荘として使われていた物件をおばあちゃんに売ったのである。

不覚にも、冬にそれほどの積雪になり、生活そのものができなくなるほどの場所であることは、私たちも想像できなかった。

無事に引越しを終えて、私たちに温かいお茶を入れてくれたおばあちゃんのほっとした表情を、今でも憶えていて、時々思い出す。

安心して住む場所があり、生活するに不安なく生きていけることのささやかな幸せが表われている表情だった。

今はもうとっくにそのおばあちゃんは亡くなっていることだろうが、その後の余生をどのように送られたのだろうかと、ふと考えたりするのである。

一往復の引越しを手伝っただけのこのおばあちゃんのことは、なぜかとてもよく憶えている。

ついでに、そのおばあちゃんを騙した悪徳不動産屋の顔も、なぜか鮮明に憶えているのである。



人間を「ポリス的動物である」と定義したのは、アリストテレスである。

ポリス的とは「社会的」とか「政治的」とかいわれている。

学生時代に、政治的な活動にかかわったことは、社会のいろいろな面を見るうえで、非常に役に立った。

当時はまだ、55年体制の延長で、時の政権与党の自民党は健在だった。もちろん、この数年後に選挙で大敗するとは思いもよらなかったが。

学生部というのは、自民党の東京都連の中にあって、当時は数名の学生しかメンバーがいなかった。当時、景気はまだとても良くて、社会不安もなく、今のような現実的な国防問題も顕在化していなかった。

政治に興味を持つような学生は少なかったし、そもそも政治に関わっているというだけで、変な目で見られるような雰囲気があり、みんな政治的には白けていた。

人間にとっての政治は、とても大切なもので、考えてみると、政治家の判断ひとつで、国家の運命を大きく左右するような、とてつもなく責任の重い仕事なのだが、この政治の責任は、民主主義の下では国民一人一人が背負っているはずのものである。

政治に関わるということは、ある種の政策の選択を行うわけであり、そこには価値判断が含まれる。

政治だけではない。宗教や思想や信条も、価値の判断が明確に出てくるので、そこに人は一定の偏りや党派性を感じ取り、そこで活動する人を偏屈な人であるとみなしたりする。

何もせず、どこにも属さず、ただ傍観していることが、公平であり、公正であり、客観的であると考えられているのである。

また政治家になるような人は、欲が強く、権力が好きで威張っており、お金儲けがしたい人なのだというような、根拠のない評価もある。

私が実際に見てきた、政治に関わる人たちは、そのような人たちではなかった。

自民党の代議士でも、様々な点で、いわゆる「永田町の論理」に毒されている人はいたとしても、政治家としては国家のことを考え、国の行く末を案じる人が非常に多かったのである。

彼らは、選挙に落ちれば、ただの人である。しかし、そのリスクを冒しても、政治家としてやってみたい理想や理念がなかったら、とてもやっていられるものではない。

少なくとも政治家よりも安定した立場にある人々が、軽々しく政治家を中傷したり政治に関わる人を侮辱したりする資格があるとは思えない。

どのような立場にある人も、その立場にいなければわからない苦労や苦しみはあるものなのだ。

私も、自民党の学生部の活動を通じて、そのような政治家の苦労を垣間見ることができた。

政治的動物である人間が、堂々と政治的発言をしたり、活動をしたりすることが、むしろ尊敬されるような社会風潮を作っていきたいものだと思う。

政治的に無関心であったり、無気力であったり、ただの傍観者であるよりは、むしろ学生時代に、そのような世界に足を踏み入れて、いわゆる政治の現場を学んでみることは、大切だと思うのだ。

教育的には、一定の党派に偏った教育はしてはならないことになっているかもしれないが、それは教育をする側の論理であり、教育を受ける側が、自分の判断でいわゆる具体的で現実的な政治活動を行うことは、決して否定されるべきものではない。

少なくとも大学では、それくらいのことができないようでは、ポリス的動物である人間の、非常に重要な部分が抜け落ちてしまうのではないか、と私には思える。







大学院の時代には、便利屋でのアルバイトを中心に何とか金銭的な面はカバーしながら、そして奨学金を利用して乗り切った。

明治大学のあるお茶の水の駅の近辺には、古本屋もたくさんあり、本を買うにも不便は全くなかった。

苦労したのは修士論文の作成で、これはテーマを決めることが一番難しかった。

なにぶん、栗本慎一郎先生から教わりたくて法社会学のゼミを選んだわけだが、当時はいろんな分野の本を学際的に読んでいたので、研究したいと思うテーマが、どんどん広がっていった。

大学院に行く前に、栗本先生と面談した際「大学院ではとにかく重箱の隅をつつくような研究が必要で、それをやらなければ研究者としては通用しない」ということを忠告されていた。

確かにそうだろうと思うし、それが研究者なのだろう。

あるテーマで論文を書こうと決めて、書籍や資料を読んでいると、あれこれと別のテーマや問題点が出てきてそちらを調べたくなり、そうしているうちにとりとめなくなってしまうということを何度も経験した。

結局私が書いた論文のテーマは「著作権と個性」についてというもので、自分としては絞りに絞って書いたつもりであったが、やはりそれでも不本意な感じがしたのを今でも憶えている。

論文は無事に審査を通過して、学位を取得し、明治大学での2年間はあっという間に終わった。

大学院の時代には明治大学の中だけではなく、いろいろな出会いがあったが、同じ大学院に聴講生として来ていた友人に誘われて政治の世界にも足を踏み入れた。

永田町に何度も通って、学生時代に政治活動を経験したのである。

私自身は政治的にはそれほどの考え方を持っていたわけではなく、中立的な立場でそのような現象を見ていた。

ただ、実際に具体的にそのような世界に足を踏み入れてみて、学者がいうような中立という立場を疑うようにはなっていった。

高円寺の私の狭い部屋に明治大学で知り合ったMさんが訪ねてきたのは、いつだったろう。

私に、自由民主党の学生部に入らないかと誘ってきたのである。

私はこのMさんのことは大好きで、東京に出てきて大学でも本当にお世話になっていた。

私の世界を広げてくれて、たくさんの友人たちを紹介してくれた。

ただ、最初に誘われた時は、少し躊躇したのは事実であった。ただいろいろと話をしているうちに、おもしろそうだと思い始めて、結局参加することになった。

「政治」というものについて考えるようになったのは、この時の経験が大きかった。私はあまりいろんなことに偏見を持たずに飛び込んでみるということをモットーにしていたので、何でも経験だと思って、やってみることにしたのである。

今から思えば本当によかったと思っているし、あのころの経験は今でも忘れていない。



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明治大学は当時は男っぽいイメージがあった。

それにまだ学生運動みたいなことをやっている人がいて、学内での活動もそれなりに活発だったように記憶している。

それでも大学院には学者っぽい人がたくさん集まっていて、それなりにアカデミックな雰囲気があった。

なにぶん当時は景気も良くて、無理に就職しなくてもいいような雰囲気もあり、大学院の博士課程などで何年も大学院に残ったり、将来の就職など何も考えずに学問を楽しんでいる人もいた。

その意味では、食べるためにあくせく働かなくてもいいというようなムードは、学問的な世界に浸るには大切であるようにも思う。

景気が悪くなり、就職が厳しくなり、食べていくために必死で働いたり、将来に不安を抱えているようでは、なかなか学問の世界に入れないというのも確かなことだ。

明治大学で学んだのは2年という短い期間だったが、自由な立場で色々な経験をすることもできた。

それは東京という場所が、多くの人が集まり、多くの情報が集まり、多くの変わった人が自由に生きていける環境があったからかもしれない。

フリーターのような生活をしながら、大学に聴講生として来ていて、そこで学んでいる学生や、社会人でありながら大学院生という人もいた。

いろんなライフスタイルがあるものだと感じた。

田舎にいたころは、普通に大学を出て、会社に就職して、そこで一生勤めるものだという固定観念があったのだが、景気の良かった日の東京での多くの人の生き方は、本来、人生はもっと自由なものであるということを私に教えた。

多くの人がその道に進む、典型的な人生がある。

そこには安心や安定や、世間からの一定の評価もあるだろう。

しかし、やはり自分が納得する人生を生きるということを大切なものとして考えておいたほうがいい。

実際に、バブルがはじけ、日本は長期の景気の低迷に入り、現在でもその後遺症は続いていて、多くの大企業は没落の憂き目にあっている。

そんな時に、自分を支えるものは一体何なのかということを、考えざるをえなくなる。会社の名刺や肩書や立場などが、実にむなしいものであることもわかるだろう。

そして何より、年齢を重ねた後に定年し、組織を離れた自分となった時に、さてそれでもやるべきことを自分の中でつかんでいるか。

どんな時代に、どんな環境下で生きても、自分はこれをやりたい、これをやるべきだということを、ある種の使命感をともなって、見出せるか。

その種子は、学生の時代、自由な時期にこそ考えることのできるものなのである。

固定観念を離れて、時間とお金と人間関係の自由があったとしたら、その中で一体自分は何をやりたいと考えるだろうか。

何をすることが、真の幸福だと考えるだろうか。

私は明治大学にいた2年間、このようなことを考えながら生活をしていた。



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2013.01.04 高円寺へ
明治大学の大学院に入学して、かなり生活にも慣れてきた頃。

福生から御茶ノ水までの通学時間の長さが勉強の障害になってきていた。

交通費を考えても、いっそのこと大学まで近い場所に引越ししたほうがいいのではないかと考えるようになった。

大学の近くに、学生向けに不動産を紹介するところがあって、そこに相談することにした。家賃は2万円程度で、少々狭くても、古くてもいいという条件で、4畳半の部屋が見つかった。

物件は高円寺にあった。

ここからなら御茶ノ水まで乗り換えなしですぐに行けるということで、たいして何も考えずにここに決めた。

友人は私が部屋を出ていくことを残念がっていたし、寂しがってもいた。しかし、これから先の生活を考えると致し方ないと思って、5月のゴールデンウイークには引越しをすることに決めた。

便利屋でアルバイトをしていたので、引越しは便利屋に頼んでやってもらうことにした。このとき社長は私に引っ越し代を請求しなかった。

それどころか、便利屋で様々な仕事の折に手に入るもの、たとえば冷蔵庫や本棚などの必要な品々を私にくれた。セミダブルのベッドを持って行けとやたらとすすめるので、困った挙句もらうことにした。

このベッドのために狭い部屋はさらに狭くなり、私はもらったことを後になって後悔したが、捨てるわけにもいかず、その後使い続けることになった。

なぜ社長があのでかいベッドを私にすすめたのか、その時はよくわからなかったのだが、きっと社長も処分に困っていたのだろう。

便利屋では引越しや掃除の仕事の際に、いろいろなものの処分を頼まれることが多く、処分が難しいものが、会社の庭にたくさん積まれていたのである。

そのようなわけで、社長と私の二人で、私自身の引越し作業を終えて、5月からは高円寺が私の新しい住処になった。

高円寺は何とも言えない不思議な街である。

商店街は小さな店が所狭しと軒を連ねていて、個性的な面白い店も多かった。古本屋がたくさんあったことも私にはありがたかった。

その部屋は家賃が安い反面、トイレは共同、お風呂はなし。

生活には決して便利な部屋ではなかったが、当時の私の経済事情からは致し方のない選択だった。

高円寺に来てようやく、落ち着いた環境で勉強に専念できることになった。







大学院に通っている間に、仕事をしていた「便利屋」では、いろんな人々に出会うことができた。

大学院の研究の世界はある種抽象的で、現実離れした議論も可能であったし、また時として必要でもあったが、仕事はそうはいかない。

毎回の仕事は現実とのぶつかり合いだった。

いろんな人々がいろんな環境に生きていて、そこには抽象的な議論ではとらえられない現実がある。

様々な人々の生活、人生、価値観、生き方、仕事、家庭環境、人間関係。

そのような現実を見たときに、学問の世界が不思議な世界にも見えたし、まただからこそ逆に必要なものにも思えた。

しかし、そうは言っても人間がよりよく生きるために、また幸せになるために必要なのが学問ではないかとも思ったのである。

月曜日から金曜日までの本に埋もれた生活と、土曜日と日曜日に経験する汗と泥にまみれたような生活と、そしてそれぞれの場所で出会ういろいろな人々は、私に本当に多くの学びを与えてくれた。

理想と現実。言葉で語られる世界と、言葉にできない世界。

多くの人々の生活世界を見る限り、その随所に真理が潜んでいるのではないか、とも。

人間は他人と共通のものを見出そうとする存在であると同時に、他人との違いを見つけ、自分の固有性を探そうとする存在でもある。

その二つのものを同時に掴むことができたのは、他ならない、本当にたくさんの人々に出会ったからであった。

もう名前も忘れた学友や仕事の途上で出会った人々に、今は心からの愛着を感じる。

人と人との間で。

そこに幸せがあることも、自身の成長や向上があることも。

自分の周囲に意見や主義や主張が違う人がいることも、場合によっては対立することがあったとしても、けんか別れするような関係になったとしても、それでも他人がいることは、なんと幸せなことだろう。




明治大学のあるお茶の水駅と友人のマンションがある福生の駅との間を行き来する生活が始まった。

大学のそばには、アルバイトができそうな場所がたくさんあったのだが、授業の合間や、それが終わってからアルバイトをすることは非常に難しかった。

大学と友人のマンションがあまりにも遠く、通学に時間がかかりすぎたので、結局は土曜日と、日曜日の両日でアルバイトを探すことにした。

ひとつだけ、大学の近くの出版社で、授業の合間にきて仕事ができる場所を、大学院の友人が教えてくれた。出版物の校正の仕事だった。これは助かったのだが、長時間できなかったことと、自給が安かったので、あまり生活の足しにはならなかった。

何とかして土日で稼ぎたいと思っていたら、私の友人がアルバイトをすっぽかしたことがきっかけで、私が代わりに行くことになり、そこでずっと働かせてもらうことができるようになった。

「便利屋」の仕事で、当時はそのような業態はあまり多くはなかったが、ニーズはかなりあって、毎週のように仕事が転がり込んできた。

引っ越し、掃除、物の運搬、家具の移動、庭の手入れ、ペンキ塗り、壁紙はりなど、あらゆる仕事をやらせてもらった。

会社の名前は「丸急サービス」という名前で、立川からさらに西側のエリアが、主な仕事場になった。この会社は実は社長とその奥さんが二人だけでやっていた会社で、あとは適時アルバイトを雇って仕事をこなしていたのである。

私は、毎週土日にほぼ確実に仕事ができたので、非常に重宝されて、結局この会社で4年ほど働くことになった。

社長のKさんは本当にいい人で、いつも優しかった。

お酒が大好きで、カラオケも好きだったので、仕事が終わるといつも私を食事を兼ねて飲みにつれて行ってくれた(お金は一度も自分で払ったことはない)。お酒が弱い私は、得意なカラオケを歌って盛り上げた。

大学院での研究の時間も必要で、本を読む時間が欲しかったのだが、社長に誘われると、断ることもできずに、いつもお酒で(たいして飲んでいないのに)真っ赤な顔をして電車に乗って帰宅した。もちろん帰りの電車の中では真っ赤な顔をしながら専門書を読んでいた。

仕事は非常にきつかったのだが、いつも社長はその日のうちに給料をくれたし、最も大変な引っ越しのときは1日で3万円もらったこともある。

このアルバイトのおかげで、私はなんとか本を買ったりできたし、学生らしい?生活をすることができたのである。

私の窮地を救ってくれたK社長には心から感謝している。

このアルバイトは勤務態度が不真面目な私の親友はそのうち頼まれなくなり(もうやめようとしていたようだった)、社長は私にばかり頼むようになった。

この時期に肉体労働ばかりをしていたことが、私の体力を強くし、結局はこれが集中力や持続力の源になったと思う。

そしてこの仕事のおかげで、今ではあまり使っていないが、いろいろな技術も身についた。たくさんの経験もさせてもらうことができた。

今ではとてもできないと思うが、若い時期には、このような生活もまた悪くはないものである。











明治大学の大学院には、たくさんの大学院生がいたが、私のゼミ(栗本眞一郎ゼミ)には、同学年は私しかいなかった。

ひとつ上の学年に一人だけ先輩がいたが、確か定時制の高校の教員をしながら大学院に所属していたという先輩だったと記憶している。

大学院では一応研究室が院生には与えられていて、学習室もあったので、勉強するには不自由はなかった。

また、学部とはちがって、授業の数も少ないので、かなり自由な時間があり、そこが自分次第の時間であった。優秀で頭のいい人が多かったので、議論についていけないこともあり、自分の知識不足や勉強不足を思い知らされる毎日だった。

結局、自分でテーマを見つけ、自分で研究を進めていかなければならないのが大学院である。そうして修士論文を完成させてこそ、研究者としての基礎的な素養があるものとみなされる。

ただだからとて、研究者になれるかどうかは全く分からず、将来が見えない面も大きかった。すでに当時の段階でもいわゆるオーバードクターと呼ばれる人は何人もいたからであった。

自分が本当に大学で研究者になるほうがいいのか、実はもっと他のことに向いているのかは、やってみなければわからないものである。

だから、必ず2年間で修士論文を完成させ、その後の進路をきちんと決めて見せようと決意していた。

研究者になる道が、大学に残るという道でなくても可能ではないか、と考え始めたのは、ずっと後になってからのことであり、現在では、大学に残らなくてよかった、と思っている。

しかし、明治大学で過ごしたわずか二年の歳月は、私にとっては本当に幸せで、ありがたい時間だった。

今でも卒業生として、大学の図書館は使わせていただいているし、もっと歳をとったら、明治大学の近くに住んで、大学の図書館をフルに活用して、研究三昧に明けくれようかと目論んでいる。

自分の短い人生の中で、結局何を学び、何を残せるのか、それだけが勝負である。

自分がやってみたいこと、めぐり合わせでやらなければいけなくなったこと、そのような物事は、自分の人生に大切な何かを残してくれるものだ。

だから、すべてを受け入れて、全力で努力する。

本当はそのようなものの中にしか、幸せはないのではなかと。そしてまたそうして努力している状態が、幸せな状態なのだと、今は思える。

研究や勉強が好きならば、それはどこにいても、一生続けたらよい。

自分がやっていて幸せだと思えることは、いつでも、どこにいても、本当はできるのだ。

環境のあり方に幸せの種子を見つけようとしてはいけない。自分の好きなことの中に、幸福の種子があるのならば、それはどこにいても、いつでも、持ち運ぶことは可能なはずだからである。




友人が福生のワンルームのマンションに帰ってきたのはもう午前になる頃だった。

私の上京祝いだとか言って、確か「たい焼き」を買ってきてくれたのを憶えている。

この友人は、中学の頃からの親友で、本当に仲が良くて、お互いの家を行き来して勉強も遊びも共にした仲だった。

この友人は大学受験に一度失敗し、浪人した後に東京のある私立大学に入学した。その後様々な家庭の事情や親子の葛藤などがあり、結果的に大学をやめてフリーターになっていた。

この頃はまだ景気がよくて、アルバイトもたくさんあったし、今とは違う意味でフリーターは非常に多かった。

この夜は久しぶりに色んなことを話した。

私が明治大学の大学院に進学することを友人は喜んでいたし、ずっとここから通えばいいと言ってくれた。もちろん家賃など払わなくてもいいと。

この友人を見ていると、基本的にはお金にも困ってはいなかったし、楽しそうにしていたのだが、なぜか一抹の寂しさや、不安を抱えているように思えた。

本当に仲がよくて、たくさん話したと思っていたが、まだまだこの友人に対しても、私は知らないことが多くて、理解していないのだろうと思った。

大学をやめた理由も、何となく明確でなかったし、全ては話せなかったのかもしれない。

その意味で、たった一人の人間でさえ、深く理解することの難しさを感じたし、少し離れてしまうと、もう相手は自分とは別の世界を生きていて、私が見ている彼の姿は、ほんの一部だったのではなかったか。

それでも私はこの友人が大好きだった。

私は翌日からアルバイト探しを始めた。とにかく仕事は選んではいられなかった。学費は両親に出してもらうことになってはいたが、東京での生活費やそれ以外の費用は、奨学金とアルバイトで賄う必要があった。

福生の駅の周辺を歩き回ったが、大学の授業の無い日だけのアルバイトはなかなか見つからず、焦りに焦った記憶がある。近くのソバ屋で皿洗いでもしようと掛け合ってみたが、時間が合わない。断られた。

福生から、大学のある御茶ノ水まで通うのが非常に大変で、これが悩みの種だった。

交通費もバカにならない。そう遠くないうちに、この部屋を出て行かなければならないだろうと思った。

大学院の授業が始まっても、アルバイトはなかなか見つからなかった。

大学院では民事法学専攻で法社会学のゼミに所属することになっていた。当時はマスコミなどで非常に著名だった栗本慎一郎教授のゼミである。

明治大学は現在、非常に立派な建物が建っており、学生の数も増えて、人気の大学になっているが、当時は建物も古く、今の校舎からは想像もできないような大学だった。大学院の建物も古く、最初はここが大学院だとは思わずに、通り過ぎたりしていた。

普段はそこを舞台とした大学院生活が始まったのである。







2012.09.16 上京した頃
昔話を書いてみようと思う。

大学卒業後、九州から東京に引越ししてきて、明治大学の大学院に進学した。

あれからすでに25年の歳月が過ぎた。

東京もずいぶん変わってしまった面もあるが、上京したての頃を思い出す。

大学の卒業式(出席はしなかったが)が終わり、東京に出ることが決まってはいたが、実は住む場所を決めてはいなかった。

私の高校(長崎県立大村高校)時代の友人が東京の大学に進学(しかし中退し、この時はフリーター)していて、先に上京していたので、その友人の部屋に転がり込むことになった。

私が上京することを聞いた友人が、「俺の所にこい」と強く勧めてくれたからである。3月の末に大学のサークルの後輩達に見送られて、鹿児島空港を飛び立ち羽田へ。

実家のある長崎には行かず、直接東京に向かった。

私の数十箱の書物と、わずかな衣類は、直接鹿児島から東京の友人宅へと送られた。

友人の部屋があった場所は福生だった。

都心からは離れていたため、上京した初日に、電車の乗り継ぎで大変だったと記憶している。今ならば何のこともない話だが、田舎からきた私にとっては、東京の電車の数と、路線の多さは難しく感じられた。

何とか電車を乗り継いで福生の駅に着き、友人のマンション(ワンルーム)を探した。

駅からほど近い場所にそのマンションはあった。マンションのドアに数字のボタンが付いていて、番号を押すことでロック解除できるものだった。友人から番号は伝えられていたので、その番号を押してマンションの部屋に入った。

友人は仕事で外出しているから、出迎えはできないとのことだったので、勝手に部屋に入ったというわけだった。

部屋に入ると、私の荷物が部屋の隅に積み上げられていて、狭い部屋をいっそう狭くしていた。

これまで大勢のサークルの後輩達に囲まれて、幸せな学生時代を生きてきた私にとっては、この東京での一歩は、とても寂しく感じられた。閑散としたマンションの部屋に入った瞬間、後戻りしたい衝動が湧き起こった。

友人が帰るまでの時間は、何とも落ち着かない。

過去に戻りたい衝動と、未来への不安がそうさせたのだろう。

夜になると友人が仕事を終えてマンションに帰ってきた。




大学時代に、授業に出てこなくなり、自分の部屋に引きこもってしまう学生がいた。

人間関係がわずらわしい、とか、サークルの人間関係がうまくいかないとか。

そのような面倒臭さは、人間同士の関係の中ではつきものである。大学も、ある種の社会の縮図であるから、先輩や後輩、同級生、先生など様々な人間関係がある。

人間というのは、本当に理不尽なもので、一貫性や論理性で考えても、理解できないものである。感情があり、様々な空気や、場の力、多くのものの影響で変化する。

それぞれに個性があり、それぞれに背負っている背景があり、今まで生きてきた経歴がある。場や状況が違えば、これまでとは違った行動をし、違った発言をする。また、自分の前で見せる顔と、他人の前で見せる顔がまるで違っていたりもする。

そうだ。

しかし、それが人間であり、自分自身も、このような面が全く無いなどとは決して言えないだろう。

そのような意味で、大学時代に多少の人間関係でのつまずきなんかで、決して人間嫌いになってはいけない。

人間の全体をつかむことは、それほど容易ではなく、困難なものである。

相手をこのような人だと決め付けるから、それと違った面を発見して傷ついたり、失望したりする。

しかし、それはそうする方がおかしいのだ。

人間を信じるということは、ある程度の理解を前提としながらも、その未知の部分を受け入れることを意味している。だから、自分が理解した範囲で、自分が知っている範囲で、相手を信じるというのはおかしなことなのである。

まだ見ぬ、相手の未知なる部分を受け入れることが、相手を信じるということである。

安易に相手を理解した気持ちになっているから、それとは違う面が見つかっただけで、大騒ぎするのである。

そして自分の理解を超えた部分に関しては、相手を異常であるとか、非常識であると決め付ける。しかし、果たしてあなたの、今までの、相手に対する理解は正しかったのだろうか。

相手を信じるということは、相手の未知なるものを理解し続けるということを「自分に」約束することだ。

学生時代の人間関係の中で、それを会得することは難しいことかもしれないが、少なくとも、様々な人間関係のトラブルやつまずきも、相手を理解し、自分の器を広げるための勉強の機会だと考えよう。

そして、どのような人間関係のトラブルや、問題や、つまずき、裏切りなどにあったとしても、それによって人間を嫌いになることがないようにしたい。

なぜなら、相手にとっては自分もまた、そのような人間かもしれないからだ。

自分にとっては理解できない面を友人がもっていたとしても、それにはそれなりの根拠があるものだ。それが理解できれば、相手を嫌いになったり、人間不信になったりはしない。

相手の未知なる部分を、理解し続けることが、相手を信じるということであって、実はその力は、人間の社会や目に見えない様々な存在に向けられていくものだ。そして、それこそが未来を創っていく力でもある。

学生時代は特に、自分の思考を開いておかなければならない。

様々な人々に対して、色々な社会や文化に対して、そして、目に見えない数多くの存在に対して。

これが、実は幸せになっていくために必要なことであることが、たとえ今はわからなかったとしてもである。















夏休みになると塾や予備校の夏期講習などが行われる。

大学に入るために受験勉強をすることは、ある意味では総力戦であって、必ずしも受験においては知力だけが問われるわけではない。

心の弱さや体の弱さ、体力や計画性、集中力、持続力。そこには今後の人生を力強く生きていくために必要な様々な要素が必要とされる。

せっかくの休みなのにと思うが、受験勉強(大学受験に限らず、資格試験なども含めて)は人生の中では経験しておいたほうがいいプロセスであると思う。

私は大学受験のために、色々な科目を勉強したが、その中で「倫理社会」という科目があった(当時)。

当時、共通一次試験があり、そのために5教科7科目を勉強した。科目数が多かったので、できるだけ短い時間で得点できる科目として、高校の先生が勧めてくれたのが「倫理社会」だった。

確かにこの科目は点数が取りやすく、このおかげで私は、かなりの得点を稼ぐことができたのである。

ただ、この科目を勉強した時に、様々な古今東西の哲学者や思想家の思想や考え方に触れることができた。哲学に興味をもって、高校の図書館でカントの伝記を読んだことを今でも良く憶えている。

この科目を勉強したおかげで、自分で人生について、世界について、この宇宙の成り立ちについて、など様々なことを考えるようになった。

受験勉強は、大学に進むための手段ではあったが、この受験勉強で学んだことによって、自分の興味や関心がかき立てられたり、掘り起こされたりすることがある。

高校で倫理社会を受験における高得点の手段として教えてくれた先生は、安藤昌益の「自然真営道」などに書かれた「万人直耕」などを自分の理想であると語っておられた(原始共産制)。

私はこの先生とは全く違う考えを持っているし、当時からそれには賛成しかねたが、自分の理想を堂々と語られる姿については(教育的にはともかく)悪い印象は持たなかった。

今はそれよりも、このときに「倫理社会」を勧めていただいたことに対して、深く感謝をしている。

高校時代に広く浅く学んだことの一部が、大学に入って後の自分の読書のきっかけを作ってくれて、自分の人生観を形作る大きな土台になったからである。

自分の目の前にある課題や、テーマについて勉強したり、一生懸命に力を尽くすことは、次の段階に進むための重要な種まきになっていることがある。

だから、その重要性が今現在はわからなくても、目先のことに真剣に懸命に取り組んでみることだ。

それは仕事も同じである。

計画を立てて、先を見通すこともとても大切ではあるが、それが、今現在行っていることについて、否定的になるようなものであってはいけない。

現在を肯定し、そこに集中することの中から、未来への大切な種子が生み出される。

夏休みというこの貴重な時間を、例えば受験勉強に全て捧げたとしても、それによって失われるものはない。むしろ受験勉強で身につけたことの中に、自分の将来の人生を支え、発展させ、成功に導く種子が宿っているのだ。

受験勉強に悩み、苦労している多くの若者達には、このことを心のどこかにとどめておいて欲しいものである。



受験への最終兵器”トリロジー”










私が大学に入学した当時も、大学内には実に色々な人がいた。

大学はスポーツ系、文化系、様々なサークルなどがあり、活動団体もあった。

政治的な活動、宗教的な活動なども盛んで、あちこちで勧誘などが行われていたものである。

私は、大学に入ってしばらくして、心に強く決めたことがあった。それは決して他人にレッテルを貼らないこと。実際にその人にじかに会って意見を聞いたり、考えを聞いたりするまでは、判断を保留する、という態度だった。

大学にも色んなうわさは流れていて、特に宗教や政治に関する活動を行っている人に対しては、根拠に基づかないうわさ話やレッテル貼りは本当に多かったのである。

私自身は大学時代には、どこの団体や活動にでも、興味の赴くままに出かけていき、その人たちに直接話を聞いたし、そうするまではうわさ話や他人の判断は容易に信じなかった。

人間が考えること、行うことには必ず理由があり、根拠がある。

それを知った上で物事やその人を判断するならば、それはまだいい。

しかし、現代ではマスコミや人のうわさ、根拠のない流言などは本当に多くて、それを判断の根拠にしている人が実に多いのである(インターネットが普及してさらに拍車がかかった)。

それは学生も同じだし、ある意味では社会人でも同じかもしれない。

実際に大学の中での様々なうわさ話に反して、私が直接に会って話した人の言うことには、それなりの正当性や根拠があったし、うわさ話とは全く違う世界がそこにはあった。

直接話を聞いて、自分で確かめることの大切さを本当に実感した。

もちろん騙されるとか、色んな被害に遭うかもしれないなどという不安や恐怖があるのかもしれないが、人間をそこまで馬鹿にしてはいけない。

やがて社会に出て行けば、そこは組織や限られた世界でのうわさ話のオンパレードだ。

学生時代のうちに、直接自分の目で見て、話を聞いて、確かめる。そして自分の意見をぶつけるという経験をたくさん持って欲しいものだ。

他人の意見や考え、世間のうわさや評価などによって安易に他人をわかったつもりになるのではなく、自分で直接に会って話したらよい。

そうすれば、数多くの人々が自分なりの立場と根拠と理由をもって生きている様を、そこに見ることができるだろう。

そして、人を本当に理解することの難しさを知るだろう。

人間に対して(自分に対しても)容易にレッテルを貼るようなことができないものであることを知ることが、自分の世界を大きく広げる一歩になる。

知は力である。本当の意味で、自分を知り、他人を知り、世界を知る力を、学生時代に養って欲しい。




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