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2007.01.30 大学入学
大学に入学したのはもう22年も前になる。あの頃のことは今でも昨日のことのように憶えている。

故郷から初めて一人暮らしをすることのワクワクした気持ちや不安、そしてなんともいえない高校時代の友人たちへの郷愁。

好きだったあの娘への切ない気持ち。

父や母に対する複雑な感情と感謝。

故郷の大村市を電車で出発した。大村駅には母や多くの友人たちが見送りに来てくれて、故郷を離れるという実感が否が応でも強くなった。

しかしここから学生時代のすべては始まった。特急電車に揺られながら、大学では一体何をしようかと考えていた。大学に学問をやりにいくなんて全く考えてもいない。

高校時代は、大学に入ることが目的になっていた。そのために正直に言えば、嫌々勉強してきた。

大学時代には大学時代の目標を探さなければならない。

しかし、入学当初はそんなことすら考えず、ひたすら受験勉強から開放されたという開放感に浸っていた。


高校時代に音楽をやっていた私は、ギターを持って電車に乗り込んでいた。

これから出会う様々なものに心が躍った。

特急電車で6時間くらいの距離が、長く長く感じられたのも、まだまだ故郷に関して、心残りのようなものがあったからだろう。。

一人暮らしはもちろん初めてである。その時は大学生だというだけで、明るい未来が待っているかのような気持ちだった。

様々な束縛から開放されて、一体自分はどこに行こうとしていたのか。

一体何が私を待っているのか。

西鹿児島駅に到着して、路面電車に乗り、鴨池町で降りた。大学の合格が決まった時に、母と一緒に住む場所を探しに来た。時期が遅かったために、もうかなりの物件が埋まってしまっていて、とりあえず四畳半のまかないつきの家に下宿することになっていた。
家賃は4万5千円、とはいっても朝と夕方は食事がつくので、現在ではかなり安く感じられるだろうが、それでも当時は普通だったのだ。

長い長い坂の途中に活水女子校や短大があって、そこを通過した高台の上に、私の住処はあった。

窓からは桜島が良く見えて、景色は抜群だった。

やっとたどり着いた下宿先の天井の木目を見ながら、荷物が到着するのを待っていた。

疲れた体を横たえて、これからのことについて考えた。

大学って、何をするところなんだろうと。



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2007.02.03 これが大学?
大きな会場での入学式も終わって、大学の授業に関するガイダンスが行われた。

大学に入学して一番最初に驚いたのが、新入生に対する学事部の職員の話だった。

「とにかく留年だけはしないでください」

この大学は国立大学、偏差値は当時で60前後。決して悪いほうではない。しかしその大学で、毎年留年者が続出して困っているのだという。

2割弱程度が進級できないなどといっていたような記憶がある。大学で単位をとることは決して難しくない。なのになぜ。

この疑問は大学の授業が始まって、すぐに明らかになった。

大学生はとにかく勉強しない。当時の大学生は本当にそうだった(今もそうだろうか)。

そして現実に入学時に顔を合わせたきり、その後顔を見ることもない学生は決して少なくはなかったのである。

みんな目的を見失っていた。大学にはすぐに来なくなった。ただ先生もそのへんはわきまえていて、出席をきちんととって学生を教室にこさせる先生もいることにはいた。

しかし多くの大教室で行われる授業はどんどん参加者が減っていった。

学問に最初から興味があったわけではないから、そんなに勉強しないのもわかるのだが、最低限の条件もクリアできずに留年していくのだから相当ひどいものである。

私は家庭の事情で絶対に留年はできなかったので、授業には必死で参加した。ただ正直に言ってあまり面白くはなかった。

今でも印象に残っている先生や授業はほとんどないのである。そう考えると大学の教室で学ぶよりも好きに読書をしてアルバイトや遊びの中で様々なことを学んだほうがずっと成長できるという気もする。

これは今の時代でも大学が抱えている問題なのではないだろうか(今では国立大学もだいぶ変わってきているようだが)。

「自由」はただそれだけでは何も生み出しはしないのだ。

大学の難しさは、自由な時間が多い方が創造的な活動ができる一方、それを使いこなせなければ、堕落するか後退するしかないということである。

大学生活に適度な緊張感を持たせながら生活していくことはなかなか難しい。

それが基本的には本人に任されているのだから、自由は強さを要求するわけだ。

この時は、とにかく留年だけは絶対にするまいと心に決めたが、まだ積極的なものは何も見つけられていなかった。






大学に入学してしばらくするとあるサークルに入部することにした。

音楽系のサークルだ。新入生が入部した初日にさっそくコンパが開かれた。正直に言えば、例えばコーラス部や吹奏楽部などのように、真剣に音楽に取り組むというよりも、ギター片手に好きな音楽を歌い、みんなで集まって酒を飲むというような不埒なサークルだった。

コンパではいきなり鹿児島の焼酎を躊躇なく飲まされ、吐いた。

これが大学生なのだろうがさすがに疲れた。こんな風にして過ごす日がかなり多く、その気になれば毎日がお祭り。そうやって暇な日常を過ごすこともできる。

私は入学当初もその後も単位を取得する必要のある授業はきちんと出ようと決めていたのだが、そのことで先輩にいちゃもんをつけられたことがある。

授業以外にも時々図書館などで勉強や読書をしていた私のことを知っていたその先輩は、ある飲み会の帰り道のこと。

「お前はなんだか勉強をしているみたいだが、大学に来て勉強するなんて馬鹿なことはやめろ。もっと遊べ」

といわれた(なぜこの先輩が私の図書館通いを知っていたのかは、いまだに不明だが)。

なぜだかそのとき私は謝ってしまったのだが、それほどまともに勉強する学生が異常な扱いをうけるような雰囲気があった。
 
私はこのような雰囲気の大学の中でこれから一体どのように4年間を過ごしていくべきなのか真剣に考えさせられた。

サークルやコンパなどはそれなりに楽しかったのだが、同時にひどいむなしさも感じていた。この状態で4年間はないだろうと思った。

人間関係もうわべだけの軽薄さがもっぱらで、お互いのことを深く話したり理解しあうような局面がない。

今の大学生たちは学生生活をどのように感じているだろうか。

たくさんの「語る場」を持っているだろうか。少なくても「語る相手」を持っているだろうか。共通の「語ることがら」を有しているだろうか。

それとも今でも、うわべだけの付き合いの人間関係の中で、虚しさを感じているだろうか。



学生時代の大きなテーマは心の友を見つけることだ。たった一人でもいい。心から信頼できて、本音で話せて、自分をさらけ出せると同時に、自分に真の孤独を教えてくれる存在。

私はその意味では本当にラッキーだった。

私の所属していた音楽系のサークルにNという男がいて同じ県(長崎県)の出身だったこともあり、すぐに打ち解けた。彼は佐世保の出身であり、私は大村の出身であったが、方言も同じで、共通の話題も多かった。

音楽の趣味などが一致していたことも仲良くなった要因だったろう。

とにかくこのNという男には何でも話せる気がして、いろんな話をした。自分の本当の気持ちや考えを隠さずに話せた。

自分から心を開かないと決して本当の友達はできないと思う。しかし、私はどちらかといえば自分から自己開示をすることが非常に苦手で、その面ではNが私の心を開いてくれたと言ってもいい。

最近の学生はどうだかわからないが、人から声をかけてもらうのを待っていたり、何に対しても受身の学生は当時もとても多かった。私もその一人だったかもしれないが、コミュニケーション欲求は強かったと思う。

学生時代にどんどん孤独になっていく学生は、人とコミュニケーションをとらない学生が非常に多い気がする。

コミュニケーションが苦手なのではない(というよりもともとコミュニケーションが得意とか苦手というのは生まれ持った能力の差ではなくて、どれだけ自分と違った個性や考え方をもった人間とコミュニケーションをしてきたかの違いにすぎない)。

だから、苦手だというのは正しくない。コミュニケーションをしないのだ。

私の場合、このような心友を得たことがその後の4年間を実に実りの多いものにした。

私はどちらかといえば内向的なタイプだったが、そのNは外向的で明るかった。

私たちはお互いに足りない部分を補完しあうようにして学生時代を過ごしたのである。

学生時代はまず、共に理解しあい向上できる友達を作りたいものだ。

私とNに共通していたのは、大学時代をいかに生きるか、という問題意識だったし、この4年間をとにかく実りあるものにしたいという強い願望だったと言える。

大学は授業やゼミやサークルやアルバイトや、様々な場面で多くの人と関わる機会は無数にある。しかも利害関係をほとんど気にしなくてもいい。だから、機会があるごとに、自分というものを、自分の考えというものを遠慮なく開示し、表現し、伝える努力をするべきなのだ。




この本を読んでみて、といって親友のNに薦められたのが

「竜馬がゆく」司馬遼太郎著 であった。

私はもともと本を読むのは嫌いではなく、高校時代からずいぶん多くの本を読んでいたが、受験勉強の合間をぬっての読書だったのでじっくり読むというわけにはいかなかったのである。

大学生は必読の書ではないかと思う。幕末から明治維新のころは日本史上最も若者が輝いていた時代だ、と私は思う。

20代や30代の若者たちが命をかけて理想実現のために立ち上がり、その多くが志半ばで命を落としてしまう。

このような恵まれた時代のほんの100年前に、新しい国を作るために命を散らした若者が数多くいたことを忘れたくはない。

私はこの本を1日1冊のペースで読んで8日で読み終えた。借りた本ではあったが、結局自分で全て買うことにした。毎日毎日1冊ずつ、大学の生協の本屋で購入していたので、生協のレジのお姉さんが「毎日1冊ずつ読んでるの?」と声をかけてくれたのを今でもよく憶えている。

この本のおかげで、日本史の授業で学んでいた多くの歴史上の人物の名が、はじめて生きた知識となって私の中に流れ込んだ。

大学でいっしょうけんめい勉強しようと思ったのはこの本を読んだおかげだ。

向学心に火がついた。

お金はあまりなかったが、せっせと本を買って読むようになった。

また大学での勉強も語学を中心に努力しようと思ったし、街にある古本屋などにも暇をみては通って、たくさんの本を購入するようになった。

本を読んでいるだけで幸せだという感覚がこの時期に培われたものとみえて、それは今もずっと続いているし、自分の内的世界を大きく広げてくれたのが、読書であることだけは事実である。

出会いが人生を変えるというのは真実だが、人との出会い、本との出会い。

その一つ一つは、実際には私たちが思う以上に価値のあるものだし、それをいつも感じ取れる感性を、ずっと持ち続けていきたいと思う。









2007.02.11 何しようか
大学に入ってからしばらくすると、色々な本を読んで考え事をしている時間が長くなった。

大学のよさをあえて言えば「考える時間」がたくさん取れること。

特に文系の学部は比較的暇な時間が多く、課題やレポートなどもそれほど多くはなかった(現在の大学生はもう少し忙しそうで、ある意味では恵まれているのかもしれないが、贅沢な時間が減少しているともいえる)。

しかし、多くの大学生たちはこの時間を使いこなせず、自由な時間を自らの堕落のために放棄していく。まさに「自由からの逃走」だ。勉強しないのはもちろんのこと、何もせずに引きこもってしまったり、大学に出てこなくなる学生も少なからずいたのである。当然に、単位がとれず留年となる。

私は絶対に留年はできないという気持ちはあったので、授業だけはきちんと出席、単位をしっかりとってその後、自由な時間を確保しようと考えた。

大学ではなぜか授業に出ないことや、不真面目な学生であることが「かっこいい」ような雰囲気があった。

確かに有名人や成功者の中には浪人や留年の挫折を味わった人がいたりもする。つまり失敗の経験がその人を大きくし、その失敗を生かして成長できる場合もある。

つまり彼らは浪人や留年はしたけれどもそれを生かして成功したのであって、浪人や留年をすれば成功するというわけではない。大方の学生たちは何かに挑戦して失敗するというよりも、何もしないで沈んでいくのである。

多くの大学生は大学での基本的な学びをおろそかにして、逆に真摯な向上心や克己心を失ってしまう。

周囲の雰囲気がすでにそのようなものだったので、私はこの状況には流されないようにと気を配った。

進級や卒業に必要な単位をそろえるための授業にはきっちりと出席し、その前提で自由になる時間をいかに使うかを考えようと、そう思った。

大学受験が終わって目標を見失った自分に、何か目標を与えようと考え始めた。




学生時代の授業でのちょっとしたエピソード。

西洋史の教授が、「君たちの中には一人暮らししている人もいるだろうが、お金に困っても変なところにお金を借りたりしてはいけない。そんなことになったら私に相談しなさい」

と言われた。貧乏暮らしの私は、「なんて親切な先生なんだろう」と思ったものだが、このような話をされるということは以前にそんな学生がいて困った事件にでもなったということだろう。

学生にとってのお金についてはまた別の機会に述べたいのだが、お金と異性に関しては学問的な知性や偏差値的知性は全く役に立たない。

どんな秀才でもお金と異性で道を誤ることがあるのだ。
少なくともお金がないといって金利の高い金融会社から借り入れるという発想は「社会的知性」が欠けているといわざるをえない。しかしやはりそれでもその場しのぎでそうしてしまうのである。

大学時代は世の中についても広く学ぶ必要があることをこのとき私は感じた。

お金を借りるということに関しては、今では当時と違う考え方をもっているが、「借金は悪」という考え方はおそらく基本的には両親から教わったものかもしれなかった。

今の学生たちは、当時よりもお金を借りることはたやすい。社会的にもそのような場やCMや誘惑はいくらでもあるし、そのハードルは高くはない。

しかし、学生時代から他人にお金を借りるという安易な選択を憶えてしまうことは、将来にとってプラスになる要素はあまりないだろう。基本的にはコツコツとお金をためて、勤勉に働くことや、貯蓄の性向を身につける方がいい。

借金の怖さは、簡単にお金が手に入る反面、それが癖になると、金銭の価値が低いものに感じられてしまうという問題があって、人にお金を借りることに対して、どんどん抵抗がなくなってしまう。

むろん当時の私は天下の臆病者で、そんなところからお金を借りるということなどもちろん怖くてできなかった。

そんな貧乏な私は、心友であったNから使い古しの自転車をもらうことになって喜んでいた。

幸いなことに、貧乏学生というのは、当時たくさんいたし、それが普通だったから、それを恥ずかしいと感じることはほとんどなかったと言える。

その意味では、現在の大学生の方が大変かもしれない。

学生としての幸福を考えるとき、お金に頼らない幸せの在り方を求めていくことは非常に大切だ。

それが人生観の基本になるものだし、その意味でお金のある生活も、お金のない生活も、学生時代に経験しておくことが最も大切であるように思う。



自転車を買う金もなっかた私は友人Nの計らいで自転車をもらえることになった。

緑色のスポーツタイプの自転車だ。

どこに行くにも徒歩だった私は、大喜びでもらいに行った。
夕方Nのうちに行ってしばらく話しをし、自転車置き場においてあった自転車をもらって帰ることにした。

ただライトが壊れていて点かない。これはさすがに自分で金を出して修理しようと思ってそのまま無灯火で家路を急いだ。

もうあたりはすっかり暗くなっている。喜びいっぱいにペダルを漕いだ。交差点を右折しようとしたとき、前方からまぶしい光が目に入ってきた。

あっ

ガシャン。

5メートル以上跳ね飛ばされたらしい。

気がついたら若い男女が私を抱きかかえていて、救急車が呼ばれ、病院に直行。顔面から地面に落ちて顔は血まみれ。

突然の悲劇。自転車は一日も活躍せずにぐしゃぐしゃ。
医者が私に最初に言った言葉「君は運がいい。生きているから」
「昨日運ばれてきた人は、病院に来た時にはもう死んでたよ」

治療を終えて入院することになったが、とりあえず部屋がなく緊急治療室のようなところに寝かされた。となりでおばあさんが「うーうー」とうなっていてとても眠れなかった。

自分では体のあちこちが痛くて、一体どのくらい入院しなければならないのか、見当もつかなかった。大変だ、明日は語学の授業がある。欠席は非常にまずい。

しかし、この状況で大学に行けるわけもない。

この時代、携帯電話などない。すぐに連絡などはとれないが、病院から実家と下宿先には電話が行ったようだった。遠く離れた長崎の地で、こんな知らせを聞いたら、両親はどれだけ心配するだろうかと思った。

眠れないついでに、いろんなことが頭をめぐった。大学に入学してから1か月ほど、ようやく鹿児島での生活にも慣れてきた。こんなタイミングで事故に遭うとは。

自分の不注意でもあり、相手のバイクの運転手が全面的に悪いわけでもない。医者がいうように、私は死んでいないし、顔面以外はそれほど傷もない。運が良かったというべきだろう。

後でわかったことだが、あと一秒でもバイクにぶつかるのが遅ければ、確実に重傷か重態か、死に至っていただろう。人生にはこんな時もあるのだなと思った。

たった一日で友人の自転車を壊してしまい、親や友人にも心配をかけてしまう。本当に情けないことである。

本当にこれからは注意をしなければならないと思った。事故も病気も、遠く離れた両親は、それを近くで確認できないだけに、本当に心配だろうと思う。自分も親になった今、よくわかるのである。

実はこの入院、私にとっては人生ではじめての経験だった。これまで病気も事故もなく、元気に生きてきた。

そんな私はこの入院のおかげでいろんなことを学んだ。





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悲劇の交通事故の翌日。一日たってみると、足や腕や、体のあちこちが痛い。

すぐに普通の病室に移された。

看護婦さんに、「あなたは昨日、あの状況で、本を読みたいから、自分の手提げから本を出してほしいと私に言っていたのだけれど憶えてる?」と聞かれて、「はい、憶えています」と答えたのだが、交通事故に遭った当日に病院で本を読みたいと言い出す学生に彼女は驚いたようだった。

その病院の看護婦さんはみんな親切で、若い人が多かった。

大学の友達が次々にお見舞いに来て、下宿先のおばさんもやってきた。
おばさんは私の悲惨な姿(顔はガーゼで覆われて誰だかよくわからない)を見て涙を流していた。

人の情けが身にしみた。

その日の昼に父親から病院に電話が入り、一番心配していなければならないその人は

「保険に入っているから一週間は病院に入院したほうがいい」といった。

えっ?

入院が一週間以上で保険金が下りるという。

「そうするよ」といった自分が少し情けなかったが、本当は父もほっとしていたのだろう。

その日、授業にはとても出ることができず、欠席。語学は3回休んだら単位をつけない、ということだったので正直あせった。しかし回復は思ったよりもかなり早く外出は可能な状況になった。

基本的に骨折もなく、表面的なけがだけだったので、腫れがひいて傷がふさがれば何の問題もない。その意味では数日で退院することも可能だったはずだった。

医者はなぜかもう退院してよいとはいわず、「まあまあ、ゆっくりしなさいよ」などといっていた。私を自転車ごと飛ばしたバイクの保険によって私の入院費はまかなわれることになるから、私が入院しても誰も損をしないのだ。また一週間以上の入院で、私には保険金が入る。

医者と私の利害は一致。

私は父親の言いつけをよく守って、結局12日間入院した。

語学だけは出席しなければまずいので、私としては早く退院したかったのだが、医者に相談すると「ここから通学すればいい」という。

そうして何日かは病院から大学に通った。

そういえば私のベッドの隣の人はかなり元気だった。奥さんが時々病室にお見舞いに来てはいちゃいちゃしていたから、ほんとにどこか悪いのかな、と思えるほどだ。
そんな人が結構いて、実はみんなズルで入院しているんじゃないかと思ったりした。

私も同罪なのだが、おかげで入院中はかなりたくさんの本を読んだ。
少しずつ何かやろうと思い始めたのは、この入院という退屈な日常があったおかげだ。人間は何かをするために生まれて、何かをするために生きているのである。

ただ寝ているだけ、黙っていても食事が運ばれてきて、暇はあるが何もできない状態は決して幸せな状態ではない。

本を読むしかない日常と、考え事をするしかない時間。

少しずつ夏が近づいていた。

この人生で初めての入院は、私にとってそれなりのきっかけになったと思う。




大学に入学して4ヶ月ほどが過ぎた。

最初の頃の初々しい気持ちは薄れ、毎日がつまらないものになっていった。あれほど受験勉強から開放されたい、自由になりたいと思った高校時代がうそのように、倦怠感と無力感が私を支配した。

何の目標もなく、何の理想もない大学での生活は、緩慢な入院生活のようなものだ。

心が晴れない。

これからの目標や計画を立てなければ、このまま無駄に時間が過ぎてしまう。

私の親友のNも同じ気持ちだったようだ。
とにかくこのままではいけない。当面やるべきことを決めよう。

夏休みを前に、私とNは相談した。

夏休みに実家に帰ったら自分の目標を考えてお互いに確認しよう。

今振り返って思うのは、この時期にもっと長期的な人生計画を練っていればよかった、ということだ。将来の自分の人生の道筋をきちんと思い描いていれば、と思うことがある。

この時は、とりあえずこのまま大学生活を送るのはまずい、時間がもったいない、ということしか考えられず、当面やるべきことを考えようとして、視野が短期的になってしまっていたことだ。

夏休みに入って、私は実家に帰省した。その間も語学だけはしっかりと勉強しようと思っていた。

実家に帰ると、高校時代同じクラスだったメンバーも大学生として夏休みを迎えていた。その旧クラスメイトたちはアルバイト、自動車学校、パチンコ、マージャン、忙しく遊んでいた。

私は図書館に通い語学の勉強と読書に明け暮れた。
自分の将来の目標を定めるためだ。

受験勉強をやっていたころと同じくらいに勉強した。

母が、受験が終わったのにまだ勉強している、と驚き半分で私の夏休みの生活を眺めていた。

もちろん、語学を勉強したり、多少の読書をしたところで、自分の将来の目標なんてそう簡単に見つかるものではない。それでも何かを見つけるまで、何かをつかむまで、何かを感じるまで、それを続けるしかできることはないように思えた。

夏休みの期間に、高校時代のクラス会が行われたりしたが、そこでも高校時代の思い出に浸るばかりで、決して将来のヒントになるようなことはなかった。

高校時代にあれほど悩みを共有していた仲間たちも、受験が終わって解放されれば、そのような悩みもなくなり、私は自分の心の状態を共有できる仲間が、もう故郷にはいないのではないかと思うようになった。

自分で考えるしかない。

自分の将来のことは自分で考える以外にそれを見出すすべはない。

故郷の大村にいる期間、私はその意味で孤独だったと思うし、そうであってよかったとも思った。



夏休み、自分はこの大学時代に何を目標にしようかと考えた。

目標というものをあまり硬く考えると、結局何も設定できないものだ。

それは、目標なんて最終的な目的ではなく、途中の通過点にすぎないから。

あれこれ考えるよりも、なんでもいい。とにかくやってみること。

私は法学部(鹿児島大学では法文学部の法律学科)に所属していたのだが、どうせなら難しいことを目標に設定したほうがいいだろうと考えた。

法律を学ぶものが目指す最も難しい試験、司法試験。
しかし私はこの試験に関する基本的な情報も何も知らなかった。
ただ難しい試験というだけの認識。

色々な本や雑誌を立ち読みして、情報を収集した。
合格者の平均年齢は28歳。多くの合格者が20歳代という貴重な時期を試験勉強にあててようやく合格できる試験だ。

現在と違い、法科大学院も司法制度改革もない。毎年合格者が500名程度の狭き門。だから目標とするには十分だ。

私は当面、司法試験の勉強をすることに決めた。
当面というのは、自分が本当に法律家になりたかったのかといえばそんなことはわからなかったし、ある意味ではどうでもよかったのである。とにかく今のような倦怠感に包まれた日常を脱却するための何かが必要だった。

よし。やるぞ。

一応、大学の授業で憲法やら民法Ⅰやら、そんな科目の授業を履修していたが、そもそも司法試験向きの授業であるわけではないし、大学の授業は先生の勝手な価値判断で、偏った授業がなされることがほとんどだ。

基本的には独学でやるしかない。鹿児島大学にはそもそも司法試験を目指す学生など皆無に近く、当然合格者もほとんどいない。よく勉強する学生でも、地元の公務員志望がほとんどだった。

一応法学研究会とかいうサークルがあったが、それほど優秀だとも思えなかった。

結局情報を自分で集め、憲法、民法、刑法の三科目による短答式試験をまず突破しなければならないことはわかった。それならそこから始めるしかない。

法律書との格闘が始まった。しかし・・・・



資格試験の裏技的!?勉強法ver.3
2007.02.17 法律を学ぶ
そのようなわけで、司法試験を受けようと決意した私は、法律の勉強を始めた。

大学の授業は教養部ということでほとんど専門科目の授業はなかった(当時は1年半は教養課程、その後が専門課程と決まっていた)。憲法や法学などの授業はあったものの、もともと資格試験のための授業ではないから当然要領を得ない。

独学でやるしかないと決めた。

夏休みが終わってからも本屋、図書館、自宅を巡回しながら勉強した。少なくとも、大学の授業は資格の勉強にはあまり役に立たなかった。学問的な視点と、試験のための視点ではやはりみるべきところ、学ぶべきところが違う。当然勉強の仕方もことなってくるものだ。

大学の授業は単位のために一応受けていたが、やはり自分で目標を決めたほうが心の張りがちがう。

大学生のほとんどは現在でも「受身の授業」に最も不満や面白くなさを感じているようだ。

しかし、大学のような高等教育機関では「勉強させる」というような方法をとった場合、義務教育に近い形をとらざるを得ず、そもそも自分で課題を見つけたり進んで目標を設定したりする力をつけることができない。

勉強しなければならない時期なのだが、大学側は学生に勉強を強いるというような形態はなかなか取れないのである。

あとは自由の多い大学の生活の中で、いかにその自由を使いこなすかという学生のモティベーションがかなり大きくその学生の4年間を左右してしまうのである。

これでは4年後、学生によって大きな差が開いてしまうのはやむを得ないことだろう。その意味で、どこの大学を出たかということよりも、大学で何をしたか、ということの方がとても大切なことになる(もちろん今でも大学の名前による区別やランク付けはある)。

私は「司法試験」という当面の目標を設定したおかげで、毎日の生活そのものやそのリズムが劇的に変化した。

目標は本当に大切だ。

しかも、自分で決めた目標が必要なのだ。

ひたすら独学で、法律の基本書を読み続けたのだが、わからないことだらけ。

特に、民法や刑法はなかなか呑み込めない。何度も繰り返し繰り返し教科書を読み続けた。

この状態を継続することはかなり苦しかった。遊びまくる大学生たちを尻目に見ながらの孤独な戦いが始まった。






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2007.02.18 大学の試験
大学での初めての試験。

それは前期末試験だった。その試験が終了するとまたしばらく長い休みに入る。試験前は図書館もごった返していた。授業に出ている者からノートを借りてきてコピーするものが多く、生協のコピー機の前には多くの学生が列をなしている。

私はノートをコピーするお金も惜しかったので、十分でない科目も自力でがんばろうと思った。

この時期だけは大学生も勉強する。

しかし、これは勉強なのかといえば厳密にはそんな代物でもないようなそんな気がして、ますます嫌気がさした。この試験ですでに成績が悪く単位を落とすものも出てきた。まだ入学して半年だ。

また、この前期末試験が終わると、図書館はもぬけの殻になってしまった。試験が終わった数日後、Nと一緒に図書館に行ったが、誰もいなかったのでびっくりしたことがある。

すごいところだ。だれも勉強していない。

私は逆にますますやる気になってきた。こんな大学生と一緒になってたまるか、と思った。この頃景気は非常によかった。大学生は何も勉強しなくても十分に就職にありつけたのだ。

これは大学生が勉強しない一番の理由だったかもしれないし、軽薄短小などがもてはやされ、努力、忍耐、根性なんて言葉が笑い飛ばされていた時代だった。大学はプレイグラウンド。

私は勉強していてもまだまだ確信が持てないでいた。
こんな過ごし方は自分が間違っているのだろうか、と。
この頃はしかし「学生時代に何をすべきか」などという本をたくさん読んで自分を勇気づけた。

そしてなによりNの存在。お互いに自分の気持ちを自由に語り合い励ましあって勉強や読書を続ける日々を送った。

青春をどう生きるか―いまやらなくて、いつやれる (1981年)

もはや古典的な本かもしれないが、加藤諦三氏の本は自分を励ますために必要なものだった。最近の学生はこのような本はもう読まなくなったのだろうか。

2007.02.19 教授を訪ねて
試験休みに入った私は、何人かの教授の研究室を訪ねてみることにした。英語の先生、西洋史の先生そして法学の先生など。

研究室に行ってみるとほとんどの教授は快く迎えてくれた。
中には「研究室を学生が訪ねてきるのは久しぶりだ」といっていた教授もいた。意外に学生は訪ねてこないのだという。

私はそこで語学の教材を借りたり、本を借りたり、いろいろな話を聞いたりして非常に有意義な時間を過ごすことができた。

先生方はこのような学生との個別のコミュニケーションを嫌いではないらしく、気さくにあれこれと話しをされた。

どんな相手であっても自分から働きかけていくことで多くのものを得ることができる。相手に対して壁を作ると出会いを無駄にすることになる。私は強くそのことを自覚した。

何でもやってみよう。

そんな気になった。もともと私はさして行動的でなく、人の出方を待ってしまうほうだ。しかしそれでは失うものが多いのも事実だ。高校までの私が全くそうだった。

もっと積極的に、話しかけていれば。
もっと自分から心を開いていれば。
もっと出会えた人と多くのものを分かち合っていれば。

そんな後悔があったのである。

大学ではそのような後悔はしたくない。
大学では何もしないことが失敗なのだ。


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2007.02.21 引きこもり
秋になると私はますます読書や思索に夢中になった。

たくさんの出会いを求めていろんな人と話したり、かかわったりしているうちに疲れが出てきたのだ。コンパに出たりしても、先輩に気を使い、周囲に合わせることに気を使い、自分を失っていった。

多くの人とかかわる以前に「自分」ができていなかったのだ。
楽しいはずの人付き合いがやがてむなしくなり、苦痛になってきた。
サークル活動も好きなことを始めたはずだったのに、次第にどうでもよくなってきた。

なかなか自分が心を開いて話し合える人を見つけることはできなかった。本音で話せないという気持ちが私を息苦しくさせていた。

自分の考え、人生観、価値観そのようなものをきちんと構築しなければ人とかかわるときも正面からかかわることができない。

何が正しくて何が間違っているのかわからない。
自分は将来どんな職業に就いて、どんなことをすればいいのか。

このような疑問にはある程度の答えが必要だった。
司法試験の勉強は続けていたが、法律に答えは書いていない。
もちろん誰も教えてはくれない。

自分で考えよう。書物からたくさんのヒントをもらおう。
心から話し合える友人を持とう。表面だけの付き合いはやめよう。
そう決めた。

入っていたサークル活動を二つともやめた。
2007.02.22 心も冬に。
サークルを二つともやめてしまった私は、ほとんど人と会わなくなった。会うといえば時々連絡をとっていたNとだけ。

特に同じ学部で同じクラスの学生とは授業で時々顔を合わせる程度で、あまり話もしなくなってしまった。

そうなるとますます人と会うのがおっくうになり、どんどん自分の殻の中に閉じこもっていった。大学に入学した頃の新鮮さは全くなくなり、数ヶ月前に感じた前向きな気持ちも消えた。

どうすればいい?

かろうじて図書館などに出向いては本を借りたり、法律や語学の勉強をしたりはしていたが・・・

その頃の私は、周囲の学生たちが馬鹿に見えて仕方がなかった。
とても同じ次元では話せない、分かり合えないと思っていた。
自分は自分の世界を行くのだと。

サークル内での陰口や悪口、うわさ話。先輩の横柄な態度。意味不明な男女関係。

今考えるとそのようなものが私にとってとても醜いものに思えていたのだろう。何かに夢中になるでもなく、勉強するでもなく、努力を放棄したかに見えるだらけた周囲の学生たちから逃れたかった。

心を閉ざして自分を守っていたのかもしれない。
そうしなければ自分を保つ自信がなかったのだろう。


大学をやめようと思った。

このような甘い環境のなかでは本当の自分がつかめないんじゃないかと。そんな気がした。

東京に出て働きながら司法試験の勉強をしようと思ったのはこの頃だ。
もうこの大学からは逃れたかった。入学から一年もたたないのに全てが色あせて見えた。

司法試験は一次試験があって、大学の教養課程の単位を取得していればそれが免除される。そのため一年半の教養課程だけは何とか修了しようと決めた。

さすがに自分だけの独断でそれを実行に移すわけにはいかない。

父に電話した。
父は通常の親であれば常識的にそうするであろうと思われる理屈で私を止めた。せっかく大学に入ったのに、もったいない。
ただ私はこのときこの常識的な言葉に反論するだけの信念も何も持ち合わせてはいなかった。

大学生活は楽だ。
しかし楽であることが幸せであるとは限らない。
退屈と倦怠。

毎日精一杯努力したり、何かに打ち込んだりして得られる充実感こそ幸福の源泉だ。

私にはそれがない。
周囲の人間のせいではない。
自分の中にそれがないのだ、と思った。
こんなに時間が与えられているのにそれが生かせないなんて、全てはそのように過ごしている自分の責任なのだ。

一から自分が望んでいるもの、やるべきことを考える必要性を強く感じたのである。もう一度、やり直そう。



自分が将来どのような職業に就いて、どのような人生を歩むべきなのか。このような問いかけが大学の中ではむなしく響く。

あたかも誰もそんなことを考えていないかのように、当時の大学生たちは遊び狂っていた。

大学1年次が終わる頃から私は猛烈に本を読み始めた。

アパートも家賃の安いところに引越しすることにした。生活のための経費を削り、できるだけ大量の本を読もうと思ったからだ。

親友のNと相談して安くて大学から近い住処を探した。もし部屋が空いていれば部屋は別にしてNと同じアパートに住もうと決めた。

探し始めたのが早かったせいかそのような部屋はすぐ見つかった。

家賃六千円。
三畳一間。
トイレ、水道は共有。

ここで生活し、自分作りに没頭する。
自分がこの大学を出るときには決して後悔しない過ごし方をする。
絶対に何かをつかむ。

自分がこの世に生まれてきた役割や意味、使命みたいなものを。

大学二年次のこの一年間が私の人生のほとんどを決めたといってもいいくらいに、本当に貴重な一年だった。

この鬱な時期、自分と向き合っていた地味で何の変哲もない時間から私の大学生活は大きな変化をみせる。




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自分の考えていることを毎日日記に書き始めたのもこの頃だ。

自分の心の動きや感情の動きを素直に書いてみると、自分というものがよくわかる。

自問自答の日々。

私は机というよりコタツの台で勉強や読書をしていたのだが、この頃は布団を敷いて寝たことがなかった。

部屋が狭かったせいもあり、コタツの台を置くと布団がしけない。
勉強や読書に疲れたらそのまま後ろに倒れて寝てはまたおきて勉強する。そんな毎日だった。

他人と話をすることもほとんどなく、完全に籠もってしまった。

「職業」について考えた。
自分に何ができるのか、何に向いているのかそんなことはわからない。
当然だ。まだ働いたことがない。

私はあまりこの時期はアルバイトをしていなかった。

中途半端な自立を恐れたのである。
そう、アルバイトでお金をもらって、ちょっと社会人の気分を味わう。
無責任なままに中途半端な自立をする。

私はそれよりも「学生に撤しよう」としていた。

今でなければできないことを、今やる。
そして、学生を卒業したらきちんと自立する。

今は親の援助なしでは学生でいられないからこそ、その親の投資を最大限に活用する道を選ぶんだ。

学生が終わったら一切親の援助は受けない。

そのための職業を私は模索した。

就職について考えた。

私の当事の選択肢としては2つの選択肢が考えられた。
ひとつは、ほとんどの大学生がそうしているように民間企業に就職すること。
もうひとつは、アルバイトをしながら司法試験に合格し法律家になること。

周りの同級生達はなぜか公務員希望者が多く、私の大学時代の同級生の多くはは国家公務員、地方公務員になった。

職業を考える上で重要なのは、その職業で働いている自分をイメージできるかということ。このイメージが湧いてこないのならば、その職業にはつかないほうがいいのかもしれない。

私のイメージはやはり何かを学び、その知識を生かして仕事をするというイメージだった。その意味では司法試験に合格して、法律家になるほうがまだ自己イメージには近かっただろう。


しかし、何度も何度も図書館に通い、法律書や判例集を読んでいた私は、この作業や勉強が必ず将来の職業に繋がることは確信できたのに、試験に合格する気がしなかった。

これが不思議なところで、現実にそのとおりになった。
人間の想いは実現する。いい意味でも、悪い意味でも。

人間は自分のイメージしたとおりの人生を生きる。

このような言葉はずっと後になって知った言葉なのだが、自分の学生時代を振りかえるとまさしくこの言葉通りになっているのである。


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大学2年時の秋。

前期試験が終わり閑散とした大学のキャンパスの中をNと一緒に歩いていた。
そして、学生に対する様々な連絡などが掲示される掲示板を見ていた。

「学生諸君に訴える」

というような演題で東洋史のある教授が講演会をやるという知らせ。

私達は試験休みに入って時間は十分あったので、その講演会に出かけてみることにした。その日は日時と場所を確認して何の期待もせずに帰宅した。

講演会当日。
午後1時から始まるということで、学生食堂で昼食をとり、10分ほど前に講演会場である大教室に向かった。

たくさんの学生が集まっているだろうから、ぎりぎりに行くのはまずいだろうと思った。

大教室は前方に2か所の入り口があり、私達は右側の入り口から入った。
Nが先に入り、私はその後に続いた。

教室に入ったが教室には誰もいない。場所を間違えたのだ。

しかしNはどんどん教室の後方に進んでいく。
私はどうしたのだろうと思いながら後に続いた。

左後方の演台に人がいるのがわかった。
教室はここで間違いがない。演台にいる人が東洋史の担当の教授だ。
しかし、開始時間10分前なのに教室には私達二人以外誰も来ていない。

私達がどんどん後ろのほうに歩いていくと、演台の方向から鋭い声が飛んできた。
「前に来なさい」
その声に私とNははじめて振り返った。

頭髪の薄い、初老の教授が演台のところに座っていた。
そして、その少し左後方に教授と同じ年齢くらいの婦人がいる。
一体誰だろう。

私達はその有無を言わせない力強い声に従い、一番前の席に座った。
教授は私達に学部と名前を訊かれた。

そうしているうちに男女1人づつの学生が教室に入ってきた。
教授は私達にしたのと同じように声をかけられ、前の席にその二人を座らせた。始まりの時刻になった。

いっぱいであればおそらくは2百人以上も入るであろう大教室で、講演者を含め、たった6人での講演会が始まった。

試験は終わり、大学生は休みにはいっている。しかし学生用の掲示板に大きく貼り出してあった講演会の案内をみて参加した学生はわずか4人。

当時の大学生の無関心ぶりを象徴してはいるが・・・





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教授の話が始まった。

約一時間近くも話されただろうか。
内容もよく憶えているのだが、何より私が大きく心を揺さぶられたのは、自分の信念に基づいて必死に学生に対して語りかけられたその姿勢だった。

大学の先生の授業にはこの「熱意のこもった語りかけ」が欠けているのだ。

学生だけが無関心なわけではなかった。
当然この講演会には1人の先生方の参加もない。
みんながさめていた。

今、目の前で熱心に話されている教授は、わずか4人の学生のために時折激しく咳き込みながらも必死に大きな声で話をされている。
まるで最後の訴えでもあるかのように。

この教授が最も訴えたかったのは結局、自分以外の全てのものに無関心な大学の先生や学生、そしてそんな雰囲気を作り出しているこの時代というものへの反抗精神だったのかもしれない。

教授は数ヶ月前に脳梗塞で倒れ、今は体の自由が効かないのだと言う。
言葉はしっかりとされていたが奥様の介助と車椅子が欠かせない。

このような状態で企画された自身の講演会。
若手の教員達は誰も手伝わなかったという。



講演会が終わった。

「たった4人だったが君達が来てくれて本当によかった ありがとう」

これが締めくくりの言葉だった。

熱意のこもった言葉。信念からの言葉。本気の言葉。
私の湿った心が少しづつ変り始めたきっかけとなった言葉。

この約一年後。
教授はこの世を去っていかれた。





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