大学院の博士課程の試験は2ヶ国語の試験と面接試験があった。

この面接では私が今後研究したいテーマを聞かれたが、私の悪い癖でかなり抽象的な話をしてしまった。また外国語の試験では翻訳にことのほか手間取ってしまい、時間以内に十分な訳文を出すことができなかった。

私が興味を持っていたことが非常に茫漠たるもので、大学院での研究に適したものかどうなのかは全く分からなかった。

真理は人を幸せにする

そのために真理の探究を行うことが学問の本質である。

この頃の私の心の奥底にはそんな考えがあった。
もちろん私が大学院でやってきた研究などはそのようなものの一部を構成するかさえ全く分からなかった。

とりあえずは自分としては精一杯試験に臨みはしたものの、試験としては満足のいく結果とはいえなかったと思う。

この頃の私は理想を追い求める気持ちと、大学の博士課程に進み教授になって偉くなりたいというような栄達を求める気持ちで揺れ動いていた。抽象的で専門的な勉強の中で、自分が賢く、偉くなったような錯覚もあった。

複雑な気持ちを抱えて大学院入試の結果発表を待つことになった。

父や母は、ここまできたら大学の先生になって欲しいと思っていただろう。
私の気持ちをよそに周囲はそんな期待で一杯だった、

ここは私の人生で非常に大きな転機になる。

そう思った。

しかし、もはや試験は終わったのだ。なるようにしかなりようがなかった。

2008.06.01 滑落
これまでの人生は大きな失敗をすることなくここまでやってきた。

もちろん小さな失敗はたくさんあっただろうが、大きな転機ではそこそこの結果でここまで生きてきた。

高校受験、大学受験、大学院修士課程入試。

振り返ってみても大きな失敗はなかった。その意味で私はこれまで順調な人生を歩んできた。

非常に高い結果ではないのだが、別に悪い結果でもない。そんな状態だ。

しかし、この最後の段階で私はこれまでの路線から滑落することになってしまった。

大学院博士課程の入試の合格発表に私の名前はなかった。なぜか「やっぱり」という気持ちのほうが強かった。
このときに初めて、私は先のない不安を知った。そして今までの自分の人生を反省させられることになった。

幸いに世の中の景気は非常に良かったし、その気になればどんな仕事でもできた。
フリーターなどはたくさんいて、東京ではそんな存在は珍しくも恥ずかしくもない。

食べていくことに困ることはないのだが、しかし。

自分の人生設計が大きく崩れたのである。

私はこの失敗の意味を考えようとした。この出来事は私にどんなメッセージをもたらそうとしているのか。この失敗はどんな意味があるのか。

おそらく試験の失敗は具体的な理由があった。語学の点数?面接内容?
しかし私にとっては悔いのない努力はしたつもりだった。

もう一年大学院の博士課程合格のために勉強を続けるという選択肢は私の心の中から消え去っていた。大きな進路の転換が求められているんだ。

このとき私はこの失敗の意味をそのように受け止めたのである。





2008.06.03 大転換
傲慢さを捨てて、人に仕える仕事をする。

努力だけでは道が開けない不遇な人々の人生をもっと知る。

自分がこれまで当然だと思ってきた環境を持っていない人々に出会って、その人生から多くを学ぶ。

書物を捨てて、街へ出る。

これまでの学歴や経歴は全て捨てる。

これまで積み重ねてきたことが全く役に立たない場所で仕事をして、自分の本当の実力を試す。

全てを1からやり直す。

人に何かを教えるには自分を知り、他人を知り、世界を知らなければならない。

私は本当は何も知らない。これからが本当の勉強である。

こんな思いが次から次に自分の心の中に湧いてきた。
人生の大転換の時期に来ていた。

フリーターでもいい。

本当に自分の納得のいく人生を生ききるためにも。

書物だけではなく、これから出会っていく無数の人々が、人生にとって本当に大切なことは何かをきっと教えてくれるはずだ。




2008.06.12 新たなる一歩
こうして私は大学院の修士課程を修了し、フリーターとなった。

大学院での2年間はしかしとても充実していた。

たくさん勉強したし、たくさんの人にも出会った。

また田舎では経験することのないことにもたくさん遭遇した。

ただ私の心の中には、ある種の傲慢さが生まれていた。

もともと学問を深くやりたいと考えたのは純粋に真理の探究を目標としていたこと、そしてなぜだかは分からないが「真理は人間を幸せにするものだ」と私が考えていたことがきっかけだった。

そのようなものを求めるのに必要ではないものをたくさん気にするようになってしまった。

プライドや見栄、他人の評価。

私の心には余計な心の塵がたくさんついてしまっていた。

どんな環境でも自分の求めるものは追求し続ければいい。

たとえどんな仕事をしていても、お金がなくても、人から評価されなくても、ただ自分に本当に自信が持てて納得できる生き方をするためにも。

私は自分のこれからのことを考えた。

今24歳。これから30歳になるまでは、仕事で様々な経験を積みながら、コツコツと学問を続けていこうと。

いつかは自分の学んだことを人に伝えることができるような、そんな仕事がしたいと思った。

大学院の博士課程の試験に失敗してフリーターになってしまう私をどんなにか両親は心配しているだろうか。またこれまでの両親の投資を私は無駄にしてしまったのだろうか。

そんな思いが心の片隅に残っていた。

それでも、自分の信じた道を歩んでみようと、そう決意したのである。

2008.06.13 それから
それから・・・・4年。

当初の予定よりも2年ほど短い期間ではあったが、私は4年間フリーターの生活を続けた。

そして、自分の学んだことを人に伝える仕事、教える仕事に就くことができた。

これからはそのような立場から「学生時代をいかに生きるか」について書いていこうと思う。

このテーマはそれ自体が一つの時代に対するテーゼになっている。

なぜなら、「学生時代をいかに生きるか」などということを真剣に考える学生はそれほど多いとは思われないからである。

学生は自分の進路のこと、就職のこと、人間関係や将来のこと、実に多くの個別のテーマについて悩み考えるものだ。

しかし、それを方向づけたり、判断の基準となる考え方を真剣に探求している学生は不思議とそれほど多くはない。

自分の人生についての根本的な価値観や判断基準を形成するには、学生時代は非常に重要な時期であり、またそうでなければならない、というのが私の考えである。

「学生時代をいかに生きるか」をテーマに私が学生時代に考えたことや、現在の学生たちと接していくなかで考えていることをミックスさせながら、これを現代的なテーマとしてもう一度よみがえらせたいと思う。

現在の学生は(というよりも大人も)様々な技術やテクニックなど、目先の結果を与えてくれるものに多くの意識を向けている。もちろんそれ自体が悪いわけではない。

時々自分の存在や価値観や人生観などについて真剣に考える機会があったとしても、それを深く追求することなく時を過ごしている。

そのような刹那的な考え方やその場限りの軽薄な風潮に対して、楔を打ち込みたいのだ。

学生はもっと自分の純粋な感性に対して素直であるべきだ。

自分の心の奥底に、自分がいかに生きるべきかを問う声がいつも聞こえているはずだ。

それを探す旅こそが人生そのものであることに、やがて気がつくのである。