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人間を「ポリス的動物である」と定義したのは、アリストテレスである。

ポリス的とは「社会的」とか「政治的」とかいわれている。

学生時代に、政治的な活動にかかわったことは、社会のいろいろな面を見るうえで、非常に役に立った。

当時はまだ、55年体制の延長で、時の政権与党の自民党は健在だった。もちろん、この数年後に選挙で大敗するとは思いもよらなかったが。

学生部というのは、自民党の東京都連の中にあって、当時は数名の学生しかメンバーがいなかった。当時、景気はまだとても良くて、社会不安もなく、今のような現実的な国防問題も顕在化していなかった。

政治に興味を持つような学生は少なかったし、そもそも政治に関わっているというだけで、変な目で見られるような雰囲気があり、みんな政治的には白けていた。

人間にとっての政治は、とても大切なもので、考えてみると、政治家の判断ひとつで、国家の運命を大きく左右するような、とてつもなく責任の重い仕事なのだが、この政治の責任は、民主主義の下では国民一人一人が背負っているはずのものである。

政治に関わるということは、ある種の政策の選択を行うわけであり、そこには価値判断が含まれる。

政治だけではない。宗教や思想や信条も、価値の判断が明確に出てくるので、そこに人は一定の偏りや党派性を感じ取り、そこで活動する人を偏屈な人であるとみなしたりする。

何もせず、どこにも属さず、ただ傍観していることが、公平であり、公正であり、客観的であると考えられているのである。

また政治家になるような人は、欲が強く、権力が好きで威張っており、お金儲けがしたい人なのだというような、根拠のない評価もある。

私が実際に見てきた、政治に関わる人たちは、そのような人たちではなかった。

自民党の代議士でも、様々な点で、いわゆる「永田町の論理」に毒されている人はいたとしても、政治家としては国家のことを考え、国の行く末を案じる人が非常に多かったのである。

彼らは、選挙に落ちれば、ただの人である。しかし、そのリスクを冒しても、政治家としてやってみたい理想や理念がなかったら、とてもやっていられるものではない。

少なくとも政治家よりも安定した立場にある人々が、軽々しく政治家を中傷したり政治に関わる人を侮辱したりする資格があるとは思えない。

どのような立場にある人も、その立場にいなければわからない苦労や苦しみはあるものなのだ。

私も、自民党の学生部の活動を通じて、そのような政治家の苦労を垣間見ることができた。

政治的動物である人間が、堂々と政治的発言をしたり、活動をしたりすることが、むしろ尊敬されるような社会風潮を作っていきたいものだと思う。

政治的に無関心であったり、無気力であったり、ただの傍観者であるよりは、むしろ学生時代に、そのような世界に足を踏み入れて、いわゆる政治の現場を学んでみることは、大切だと思うのだ。

教育的には、一定の党派に偏った教育はしてはならないことになっているかもしれないが、それは教育をする側の論理であり、教育を受ける側が、自分の判断でいわゆる具体的で現実的な政治活動を行うことは、決して否定されるべきものではない。

少なくとも大学では、それくらいのことができないようでは、ポリス的動物である人間の、非常に重要な部分が抜け落ちてしまうのではないか、と私には思える。







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